おじさん少年の記

いつまでも少年ではない。老いもしない。

【ざんねんマンと行く】 ~第38話・悪人正機(下)~

青年のうめきが、ざんねんマンの胸にも重くのしかかった。悪をなし、そのことを悔いている人間に、なんと言葉を掛けたものか。

これまで助けてきた人たちの多くも、さまざまな悩みを抱えていた。乗り越える道を探すのは、容易ではなかった。
 
だが、ざんねんマンの素朴で多少ぶしつけにも聞こえる発言は、彼らの煮詰まった心に確かな光明を吹き込むことがあった。今回も、率直に、感じたままを語ってみるか。

お兄さん、まあ、言ったことは確かに悪いですよ。正直言って、最悪だ。

「うん。そう。そうなんです」。青年は硬くうなずいた。

そう、最悪なんだよ。お兄さんは。しかも、もう彼女さん、戻ってこないしね。

「それも、分かってますから。そこ、もう繰り返さなくてもいいですから」

青年がやや気色ばんできた。なんで人の傷口に塩塗るようなこと、するかなあ。もっと、なんかためになるアドバイスとか、慰めの一言とか、ないのかいな。

そうだねえ、こうなったらもう、落ち込みまくるしかないのかもしれないよ。だって、ほかにすること、ないじゃん。

適当ともいい加減ともいえるような発言に、青年はあきれると同時に一種の義憤に満ちた表情で睨み返した。

「僕だってねえ、最悪だけど最悪じゃないところもあるんですよ!だって、こうやって反省しまくっているじゃないですか!心の底まで腐りきってるわけじゃ、ないんですよぅ!」

そうか・・

面罵してくる青年を前に、ざんねんマンは一つのことに気が付いた。青年は、確かに悪をなした。だが、その悪が強力な重しとなって、心の底に潜んでいたもう一つの性分、つまり良心がうごめきはじめたのだ。

悪人はすべて悪ではない。悪を悪と認識し、悔い恥じる人間の心でこそ、正真正銘の善が輝きを放ちだすのではないか。

侍の時代、一人の僧がとなえた。

悪人正機説

歴史の教科書で読んだ記憶が、うっすらとざんねんマンの脳裏でよみがえった。そうだ、彼は今、まさにその状態にあるのだ。青年よ、悩め、悔いよ!底の見えなくなるまで!過去はもう変えられないが、これから先のことは君がどうにでもできる。自分の内なる善に気づき、磨くんだ!

突然信仰めいたことを話し始めたざんねんマンに、熱くなっていた青年もやや引いた。このおじさん、ちょっとヤバい人かもしれない

「そうですね。僕、いっぱい、反省します」

そうだよ青年。もう彼女さんは戻ってこないけどね。

「だからその一言、もういいから!」

ブリブリと怒りもあらわに、青年は立ち上がった。会計を済ませるや、ガラガラと引き戸を開け、別れのあいさつもなく駅前の雑踏に消えていった。

ああ、今日もやっちまったなあ。余計なひと言、多すぎた。

失敗に終わったように見えた人助け。しかし、ざんねんマンと出会う前と後で青年の心には確かな変化が生まれていた。
 
ただ落ち込み、己をひたすら憎む自分から、悔い嘆き、一方で確とした良心も自覚する自分へ。もう二度と同じような悪をなすまいと誓った青年の足取りは、頼もしかった。

一方のざんねんマン。「今日もやらかした」となじみの店員にぼやくと、「一人反省会だ」ともっともらしい口実をつけてはさらに2合を頼むのであった。

~完~
お読みくださり、ありがとうございました。
 
 
 
 
 

【ざんねんマンと行く】 ~第38話・悪人正機(上)~

はあぁぁ

ため息が、また漏れてきた。

駅前の大衆居酒屋。カウンターで週末の一杯を楽しみにきた、人助けのヒーロー・ざんねんマンは、隣から漂ってくる重い空気におされたか、ジョッキをあおる手を止めた。

チラリと横に目をやってみる。スーツ姿の若い男性だ。一人。ざんねんマンが店の暖簾(のれん)をくぐったときには、既に座っていた。熱燗の徳利が、寂し気に並んでいる。

何か、悩みがあるのかなあ

ざんねんマンの中で、少しずつ、人助け魂がうずきはじめた。ジョッキの残りを飲み干すと、なじみの店員に「熱燗2合で!あと、鶏軟骨もね」と呼びかけた。

カウンターに置かれた徳利を、そっと隣の青年の方に向ける。どうですか、一杯。私、今日一人できてましてね。たまたま隣り合った縁で、一緒に飲みませんか。

カウンターに視線を落としていた青年が、驚いたように顔を挙げた

「ああ、どうも。いいんですか」

モチのロンよ、とほほ笑むと、まだ湯気の沸く透き通った液体を青年の猪口(ちょこ)に注いだ。

さっきからお兄さん、ため息つかれてますね。何か、あったんですか。話せることがあったら、聞き役にはなれますよ。人に話すだけでも、ちょっとは気が楽になれるもんです。

不惑を超え、人生経験だけは青年よりも豊かなざんねんマン、猪口に口をつけながら、青年の言葉を静かに待った。

「僕、最悪な人間なんです。彼女とけんかしたときに、『勉強できない奴が偉そうなこというな』って言っちゃったんです」

有名な大学を卒業した青年は、とある合コンで事務職の彼女と知り合った。気立てがよく、周囲への気配りができる素敵な女性だった。ただ、家庭の事情もあり高校を卒業するとすぐ就職していた。

惹かれ合った二人はやがて付き合い始めた。が、幼少期から挫折知らずで過ごしてきた青年にとって、女性の生い立ちにはどこか物足りないものを感じていた。成功への階段を上っている僕に比べたら、哀れなものだ。心の中に、隠すことのできぬ軽蔑の念が横たわっていた。

たわいのない口喧嘩で、肚の底でよどんでいた醜い心が顔を出した。青年の、冷たさを伴った一言は、女性の心に冷や水を浴びせるに充分すぎた。二人の間に、越えることのできない溝が入った。あっという間だった。女性は、青年との連絡を一切、絶った。後悔、先に立たず。青年は、謝罪の言葉を伝える機会も与えられず、ひたすら己の傲慢さを呪う日々が続いた。

そんなことが、あったんですか。

聞き終えたざんねんマン、しばし言葉を発することもなく、口に含んでいた液体をゴクリと飲み干した。

はたから見ればただの別れ話だが、まだ若く失敗知らずの青年にとっては衝撃の大きすぎる出来事のようだった。

「僕は、最悪だ。人間として。一生懸命生きてきた人の尊厳を、心ない一言で打ち砕いてしまった。自分の醜さに、耐えられないです。苦しい」

青年のうめきが、ざんねんマンの胸にも重くのしかかった。悪をなし、そのことを悔いている人間に、なんと言葉を掛けたものか。

~(下)に続く~明天

 

【サラリーマン、家系図をつくる】「ファミリーヒストリー」番組の取材陣よりも私たちは恵まれている

~簡単な自己紹介はこちらです~

ojisanboy.hatenablog.com

 

公共放送で放映されている「ファミリーヒストリー」が人気だ。

 

主人公となる役者さんや芸能人の先祖を番組スタッフらが調べ、ご本人に驚く事実を伝えていく。そんなご先祖様がいらっしゃったのか。こんなことをされていたのか。見ている方も感銘を受けることが多い。

 

これだけ調べ込んでいるのは、スタッフの調査力がずば抜けているからだろう。それは間違いない。

 

だが、それだからといって一般人に同じことができないとはいえない。

 

家系図づくりに携わり、ある程度は納得いくところまでさかのぼった人間として、「むしろ本人のほうがリサーチする上で他に勝るアドバンテージがある」と主張したい。

 

家系図をつくるための第一歩ともいえる除籍謄本については、基本的に本人しか取り寄せることができない。委任状(?)があれば第三者が取り寄せることができるものの、それは面倒だ。

 

一族の中で歴史に詳しい方に話を聞こうにも、縁もゆかりもない第三者が寄っていったってそう簡単に口を割ってくれるものではないだろう。一方、家系図に登場する本人なら、熱意を込めて説明することができ、その気持ちに親族が共感し、胸を開いてさまざまなことを教えてくれるだろう。

 

それに、一族の歴史をたどる作業には、専門家のような詳しい知識はそれほど求められないと私は感じる。むしろ、本人の熱意が大切だ。これがあれば、関係する人々の協力をつかむことができ、課題に出くわしても乗り越えていける可能性がある。

 

21世紀にもなって家系図づくりかーと思われるかもしれないが、歴史は日々薄れていくものであり、記録にとどめなければなかったことになってしまう。せっかく命を授かった者として、ご先祖様の名前、歩みの痕跡だけでも文字にとどめることは、代えがたい価値のあるものではないだろうか。

 

~お読みくださり、ありがとうございました~

【サラリーマン・妄想SHOW】2・相棒

これは、しがないサラリーマンが抱いた、妄想・ファンタジーの記録である。

 

プルルル

 

私「おー、ご無沙汰です。元気にしてますか」

 

山下「ボチボチですな。それはそうと、また“出勤”をお願いしたくて」

 

私「仕事ですな。そいつぁありがたい。私もねぇ、最近喉が渇いてたんですよ」

 

山下「じゃあ明後日、赤坂で」

 


・・2日後・・

 


私「山下さん!こっちです!」

 

山下「さすが川上さん。キめるときはキめますな。ビシッとした背広姿。貫禄充分」

 

いやまあ。

 

山下「今日のお客さんは、プライム上場の専務さんですから、よろしく頼みますよ」

 

私「まかせなすってっぇ」

 

・・・そろって料亭Xへ・・・

 

ガラガラ(2人の待つ個室に初老の紳士が登場)

 

山下(やや緊張気味)「いやー専務、今日はお呼びたてしてしまいまして、すいません。さあこちらへ」(上座へ促す)

 

田中専務「いやまあ、気を使うのはよしたまえ。私はねえ、固いのが嫌いなんだよ」

 

山下『(心の声で)うそばっか。粗相があったら許してくれないタイプなんだよな。気が張り詰めるぜ』

 

(山下、額を汗でにじませ専務に酒を注ぐ)

 

田中専務「ところで隣の方は」

 

山下「いやまあ、なんといいますか、『相棒』とでも申しましょうか」

 

私「ええ、そんなところです。どうもごひいきに」

 

田中専務(むっつり顔で)「まあ、ええわ。今日は飲むとしますかのう」

 


・・・小半時が経過。田中専務、やや出来上がってくる

 


田中専務「でね、聞いてくださいよ。うちの部下どもがですね、物分かりが悪くって。最悪なんですよ」

 

山下(出た、専務の愚痴もどき。下手に相槌でも打っちゃったりしたら、「おめえは八方美人なタイプだな」なんかいって、商談を反故にされかねないんだ。まったく気が抜けないよ)

 

(山下、さりげなく隣の私に目くばせする。『そろそろ出番ですよ』)

 

私(落ち着いた野太い声で)「なるほど、『物分かりが悪い』と」

 

山下『(顔で語る)おい、大丈夫かよ。けんか売ったらダメだぞ!』

 

田中専務「いかにも、そうだが。俺の言っていることに、何か問題でも(額に青筋が立つ)」

 

私「いやいや。私は思ったのですが、それはつまり、専務が聡明すぎるということではないかと。物事が見通せる方なんて、世の中にそんなにいやしません。部下の方が悪いんじゃないんです。専務が特別すぎるんです」

 

田中専務「(真顔で褒められ、思わず歯が浮く)え、まあ、それほどでも・・」

 

私「そして、このネクタイ。渋い。渋いですよ、専務!私は好きです(じっとネクタイを見つめる)」

 

田中専務『(心の声で)こいつ、俺の本当のカッコいいところ、分かってやがる!やっぱ世の中、分かる奴は分かるんだ』

 


・・さらに小半時が経過・・

 


田中専務「それでよお、俺もよお、若いころはちったあモテたんだぜ」

 

私「分かりますよ!なんたって、この厚い胸板!レディーの憧れの的だったんでしょう、このこの、罪男!(肘で田中専務の脇腹をこちょこちょする)」

 

田中専務「(こちょこちょされるのは中学生以来。何かがはじける)お、おふう~って、このたわけ!初恋の子にもこちょぐられたことないのに!」

 

私「そんな照れちゃって。カワイイかも!さすが紅顔の美少年でブイブイいわせただけある!」

 

田中専務「それ以上いうな、もう本当に恥ずかしいから。いくら俺が確かにイケてる奴だからって、みなまで言わなくてもいいよ(デレデレ顔)」

 

私「もーこの、余裕っぷりが許せない!またこちょこちょしちゃうから~」

 

田中専務「勘弁してくれよ、俺本当にこちょこちょ弱いんだよ~」

 

・・・おっさん同士のアホのようなやりとりが続く・・・

 

翌日。

 

プルルル

 

(自宅の枕元で)私「あ、山下さん。昨日はお疲れ様でした。で、どうでしたか」

 

山下「もうね、本当ね、ありがと。商談、成立しましたよ。専務がね、『昨晩は楽しかった。あのこちょこちょさんをまた呼んでくれないか』だって。助かりました」

 

私「よかったよかった」

 

山下「えっと・・お代は、いつものように『いらない』ということで、いいんでしたっけ?」

 

私「もちろん。私の仕事はね、ただ飯ただ酒ぐらいがちょうどいいんですわ」

 

山下「あなたって人は、ホント変わってますねえ」

 

・・・

 

世の中にはいろんな仕事がある。企業の商談成立を請け負う宴会師のような職業だって、あってもおかしくない。

 

報酬?そんな堅苦しいもの、いらねえいらねえ。宵越しの銭の代わりに、酒肴さえあればありがてえってなもんで。そっちのほうが気楽だし、呑ん兵衛の本領が発揮できるんでさあ。

 

こんな「相棒」仕事の依頼が舞い込むことを、呑ん兵衛たる私は心ひそかに待ち望んでいる。

 

~お付き合いくださり、本当にありがとうございました~

【英語ニュース・投稿探訪】7・「ハーフ」にみる葛藤

米中対立が緊張の度合いを高めている。

 

米国の自由・民主主義か。中国の覇権主義か。どちらが正しいのか。どちらがこの競争に勝つのか。

 

二者択一式で考えがちだが、ことはそんなに簡単にいかないかもしれない。それは理屈上だけではなく、現実としてあるかもしれない。

 

そのことを、このインタビュー動画を通じて考えさせられた。

 

www.youtube.com

 

中国とアメリカのハーフ(ないしはクオーター)を対象にしたインタビュー動画だ。

 

うーん、聞いていて、唸らされた。

 

この人たちは、どちらの祖国も愛している。どちらか片方だけが一方的に正しい、とは感じていないし、そう言いたくない。愛情のはざまで葛藤している様子がうかがえた。なんだか、身につまされる思いがした。

 

アジアの文化、米国の文化、それぞれの良さを登場者は語っている。

 

後半、インタビューアーが敢えて政治的質問を投げかけた。今の米中対立、台湾問題、人権問題について。西側メディアは批判的に報道しているが、あなたはどう考えるのかと。

 

マイクを向けられた青年の表情に、米中ハーフとして生まれた人間の悩みがにじみでたように見えた。その青年は「デリケートなことについては語ることができない」と回答を避けたのだ。14分46秒あたり。

 

どこに監視カメラがあるか分からない。今日こうしてインタビューを受けることについても、母親に話したら慎重に語るよう忠告されたと明かした。

 

うーん、なんとかわいそうな。これだけ聞くと、中国という国はやっぱり圧政的だと感じざるをえない。

 

それでも、登場する3人はいずれも次の点を強調していた。それは

 

・西側マスコミがあげつらう面(専制主義、人権弾圧など)は、中国の人々の普段の暮らしにはほとんど関係がない(中国人がみな専制的で人権弾圧者であるというわけではない)

・市井の中国人はおおらかであり、フレンドリーであり、その文化も多様で素晴らしい

 

ということだ。私は中国を訪ねたことはないが、言語交流アプリなどを通じて一般の中国人とオンラインで交流しており、彼らの指摘に同感だ。

 

中米ハーフという人々を通じて、なんとも白黒つけがたい国家対立の一面を垣間見たような気がする。

 

「中国の人・モノ・ことは全部ダメ」「米国の人・モノ・ことは全部だめ」となじり合うのではなく、お互いに優れたところは認めあえるようになってほしいと願う。

 

最後に、インタビュアーは「将来どちらの国で住みたいか」と尋ねた。一人は米国。一人は中国(上海)。一人は「2人の子供の教育に最もふさわしい環境を考えてから決める」と答えた。

 

生活という、人生の最も重要な選択においても、判断は分かれる。それだけ価値観は多様であり、一つに決めつけることはできないということではないか。

 

~お読みくださり、ありがとうございました~

【歩き旅と思索】 48・今まで一番危なかった道3選

北は福島から南は鹿児島まで歩き、そのルートから枝分かれする形でまた歩きつないできた。

 

歩いた全ルートはこちらです~

 

危ない目にもあってきた。その一つが道路交通だ。地方の田舎道ならまだしも、国道でも歩道がほぼないところがあり、真横を大型ダンプがバンバン走り冷や汗をたらしたことも少なくない。

 

ということで、同じく歩き旅をしようかと考えていらっしゃる方のためにも、過去最も危険を感じた道をリストアップしたい。

 

〇3位

=鹿児島の国道10号(国分市鹿児島市)。

ここは今から5年ほど前に歩いたが、とにかく歩道が狭い。なのに国道で大型トラックがバンバン走る。こんな道だと知っていたら、ルートを変えていたかもしれない。しかも歩いた日は小雨がぱらつき、折り畳み傘を指しながら歩いた。これがまた、危なかった。もう国道10号は勘弁してほしい(ただ、現在は歩道が拡幅されているかもしれない。そうあってほしい)

 

〇2位

静岡県焼津市の国道150号(新日本坂トンネル

ここは2000年代半ばに歩いた。トンネル名は、グーグルマップで今調べたばかりなので、ここで合っているか定かではない。ただ、焼津市に入る手前でものすごく長いトンネルがあり、そこを息を止めて延々30~40分歩き通したのを覚えている。

当時はまだトラックの排気ガスがひどく、トンネル内は地獄だった。今のようにコロナもなかったので当然マスクもしておらず、無防備のまま埃の舞い散る中を黙々と歩いた。いやあ、地獄だった。

そういえば、トンネルの入り口にお巡りさんが一人、立っていた。何のために立っていたのだろう。分からないが、私が「歩き旅をしていて、どうしてもこの道を通り抜けたい」と話すと、うんとうなずいた後に「お気を付けて」と気づかいしてくださった。あのときのお巡りさんの暖かい一言は今でも覚えている。静岡県警のおじさん、ありがとうございました。

 

〇1位

小田原市(小田原~熱海間)の国道か県道

 

ここも2000年代半ばにチャレンジした。小田原から箱根~沼津ルートは既に歩いており、今度は伊豆の東海岸をと思って挑んだのだが、これがとてつもなく危なかったのを覚えている。

私はなるべく主要道を歩くようにしていたから、国道だったのではないかと思う。で、当時の記憶を振り返る限りでは、トンネルがあった。そのトンネルがとてつもなく歩道が狭く、というか、歩道がなく、「こいつはヤバい」と本能が訴えてきたので、ついに断念した。危なかった。

市道町道ならともかく、国道・県道クラスであれば、なるべく歩道は確保しておいたほうが非常時の備えにもなるのでよいのではないかと思うが、どうだろうか。ちなみに今グーグルマップをみてみたが、トンネルらしきものが見つからなかった。改善されたのかな。

 

〇同列1位

韓国の主要道(県道クラスかな?)・・釜山~月内間

 

こちらも2000年代半ばに歩いた。釜山のフェリー乗り場を出立し、ひたすら東へ向かって歩いた。主要道を。途中で一か所だけ、小田原と同じように歩道がほぼないトンネルがあり、泣く泣くその箇所だけローカルバスに乗ってワープした。

バスの運転手のおいちゃんが、あっけにとられていた。というのも、トンネルの手前で乗り、トンネルを抜けたらすぐに降りたからである。「何をしたいのかこの若造は」と思ったことだろう。戸惑わせてしまってすいませんでした、釜山のバス運転手のおじちゃん。ちなみにおじちゃんは大きなハンドルを握りながら、ラジカセで向こうの演歌らしきものを流していた。なんだか和やかでよかった。

 

 

というようなことで、危険な道というものに何度か遭遇してきた。先日歩いた博多~唐津間でも、糸島半島西部~唐津市につながる海辺のルートは少々危なかった。車の交通量自体が少なかったからよかったが、何かの事情で増えたりしたら、歩行者にとっては危なすぎて通行禁止にしてもおかしくないと思う。

 

とまあ、いろいろあったが、やっぱり歩き旅は楽しいもんだ。

 

また面白かった道など思い出したらメモしたい。

 

~お読みくださり、ありがとうございました~

 

 

 

【英語ニュース探訪】6・アメリカのダイナミズム

アメリカという国は本当によく分からん、と感じることがある。

 

超大国といわれるからには国内が一枚岩で固まっているかというと、そうでもない。むしろ対立が激しい面もある。それでいて、最終的には世界トップの競争力、影響力を維持している。実に不思議だ。

 

こないだ、こんなニュースを見て、またあっけにとられた。

 

finance.yahoo.com

 

 

北部のワイオミング州が、2035年までにEV(電気自動車)の新車販売をやめさせる(という動きがある)というのだ。

 

世の中が完全にEVシフト(良かれあしかれ)している中、まさに逆行しようとしている。

 

あっけにとられた、というのは、昨年8月にこんなこんなニュースを目にしていたこともある。

 

www.cnbc.com

 

西海岸のカリフォルニア州では、逆にガソリン車の販売を2035年までに禁止するという。こっちはまあ、世の中の流れに沿っているようにみえるから、違和感はなかった。

 

それにしても、なぜワイオミング州逆張りの一手を打とうとしているのか。

 

答えは記事中で触れられている。

 

Wyoming’s “proud and valued” oil and gas industry has created “countless” jobs and contributed revenue to the state’s coffers.

 

石油とガスの産業が、同州ではかなりの雇用を生み出している。それが背景の一つに挙げられている。

 

Wyoming produced 85.43 million barrels of oil in 2021, making it the country’s eighth-largest crude oil producer that year. 

 

今や世界トップの石油産出国である同国で8番目に算出しているという。

 

ほかにもいくつか理由が挙げられているが、簡潔にいえば「仕事が奪われる」ということのようだ。

 

同じ国なのに、自治体間で真逆の政策を打つ。なんとまあ、自由というか、裁量の大きなことか。

 

この自動車法制の事例からもうかがえるように、アメリカという国は州に非常に大きな権限が与えられていて、かなりドラスティックな政策を打つことができる。成功すればそれは州全体を潤す。ただ、失敗すれば州の衰退・停滞を一時的にも招くことになる。

 

何でも横一列、金太郎飴式の日本と比べていいのか悪いのか分からないが、少なくとも地方に大きな裁量が与えられていて(それ自体はいいことだろう)、物事を白黒はっきりさせることができる。そして、時代に即した政策はいち早く社会に浸透していき、やがて国の政策となり他の国々をリードしていくことになる。そういったスピード感・ダイナミックな点を持ち合わせている点はこの国の素晴らしいところじゃないかと思った。

 

私は米国の政治も文化も詳しくない。ここで政治や経済のことを語ろうというつもりも才能も知識も資格もない。ただ、外国語を学んでいる人間として、どうせ学ぶなら市販のテキストでなくこうした生きたニュースを通じたほうが表現も考え方も政治も社会も学べるのではないかと思い、メモ的に綴っている。

 

同じように語学を学んでいらっしゃる方々の何か参考になれば幸いだ。

 

引き続き面白そうな英語ニュースを探していきたい。

 

~お読みくださり、ありがとうございました~

 

 

【短編】「絶対」同士の対決

世の中が荒れとります。

 

我こそは真実とばかりに「正義」を振りかざす。

 

そうして戦いが生まれ、憎しみや悲しみがもたらされているのであります。

 

こうした「絶対」の極致といえるものが、宗教でしょう。

 

〇〇教、〇〇原理主義。誠実なほど、純粋なほど、他に対して妥協の余地がなくなりかねない。それは悲しい。

 

私は思います。信ずるものは、絶対唯一の真実であるかどうかは分からない。百歩譲っていえるのは、信じるものが「私にとっての」真実である、ということぐらいではないでしょうか。

 

「私の」「私にとっての」という枕詞さえつければ、だいぶニュアンスが変わります。余裕が生まれます。お互いに譲り合い、尊重し合う余地が生まれます。

 

自らの拠って立つところのものを大切にしつつ、排斥せず、ディスらず、受け止める世の中になってほしいと、私は願います。

 

私はあなたの〇〇教信奉を尊重します。一方で、私はビール党党員兼嫁さん教信仰を続けさせてもらいます。お互い、無理強いをしません。フォローもお布施も強制しません。それで、よくはないですか。

 

まあ、いつかこんなイベントが起きるかもしれませんし。

 

 

・・・

 

 

西暦30××年。

 

人類は遂に地球外知的生命体(ET)との交流に成功した。

 

光の速さで×××年離れた先の恒星系で暮らすその生命体は、同じく高度な文明を擁し、お互いのワープ技術を生かした親睦が始まった。

 

お互い親愛の表情を浮かべる一方で、言いようのないライバル心が沸き起こるのを抑えられないのも事実であった。

 

こっちのほうが、すごいんだい!

 

技術だって、世の中の仕組みだって、アートだって、こっちのほうが優れているんだ。そっちには、負けないぞう。

 

技術がどれほど進んでいようとも、どのような恒星系に暮らしていようとも、知的生命体の考えること感じることは似通っているようだ。結局は「自分こそ一番」だと胸を張りたいのが性(さが)であった。

 

技術の見せっこがひと段落した後、比べっこのステージは「至高の存在」へと移った。

 

地球からは、各種教会・お寺から長老数人が選ばれ、交流の舞台となった月の特設会場に向かった。あちらの星からも、厳選された何人かがやってきた。

 

お互いに、さりげなく、自分とこのすごさをアピールした。

 

(地球の長老)「ああ、天は何と素晴らしい出会いをもたらしてくだったのでしょうか。親愛と友情は宇宙不変の真理。我らが『ゴッド』の下、末永くお付き合いをしましょう」

 

(あちらの長老)「そうですかそうですか。私どもが尊崇する、唯一無二の造物主であらせられる『ナモーン』様におかれましても、さぞお喜びのことと存じますぞ」

 

(地球の長老)(ふっ、『ナモーン』とはダサい名前の神様だこと)

 

(あちらの長老)(『ゴッド』とはこれまた、固い響きじゃな。融通きかなさそう)

 

お互いが相手をディスりあった。そして、自分とこの神さまをゴリ押しした。

 

お互いが教典自慢を始めたころ、事態は思わぬ方向へ展開した。

 

(地球の長老)「我らが全宇宙の絶対神は、わずか6日で宇宙のあらゆるものをお創りになりました。まこと全知全能とは、このような存在をいうのですなあ」

 

(あちらの長老)「・・・ちょっと何言っているか分からない」

 

(地球の長老)「な、なんと申しまするか!我らが『ゴッド』に失礼な!」

 

(あちらの長老)「『6日』とはどういう意味ですか」

 

(地球の長老)「6日とは、6日ですよ!日が昇って、沈んで、それが6回!」

 

(あちらの長老)「何をわけのわからないことを」

 

話がかみ合わないのも無理はなかった。あちらの惑星では、主星の重力が強すぎるため、常に同じ地表面を主星に向けていた。ちょうど私たちのお月さまがいつも「うさぎさん」を見せているように。

 

従って、「日の出」も「日の入り」も、「1日」もなかったのである。

 

(あちらの長老)「おたくの星の『ゴッド』さまとやらは、どうやらソワソワと落ち着きのないお方のようですなあ」

 

(地球の長老)「ぐぬぬ・・・」

 

教典のしょっぱなからダメ出しされ、地球の長老は涙目になった。このまま、地球チームは押し負けてしまうのか。

 

(あちらの長老)「まあ、我らが『ナモーン』様の御言葉を聴きなされ。『我を信じ、つき従え。我は漆黒の世界をも統べる者なり』と」

 

あちらの星の住民にとって、闇夜の世界は恐ろしい空間であった。というのも、彼らは常にお日様に照らされたゾーンで暮らしていたからである。日差しの当たらない世界(惑星の反対側)は音もなく、冷たい未知のゾーンであった。

 

ああ、恐い。暗闇の世界を知る神さまって、すごい。

 

(地球の長老)「なんとまあ、『ナモーン』様とやらも、大げさなことを言う方ですなあ」

 

(あちらの長老)「な、なんと申されるか!」

 

地球の長老にとっては、なんとも間の抜けた話であった。「我々は毎晩、夜空を見上げておりますが」

 

日が昇って、沈む。沈めば闇が広がる。怖いどころか、星々のきらめきはロマンにあふれている。

 

(あちらの長老)「な、ナモーン様の出る幕がない・・」

 

一連のやりとりを、電磁波による中継で見ていた両方の星の住民たちは、ぼやいた。「どっちもどっちやん」

 

地球の長老が、つぶやいた。「もう、この手の話はよしましょうか」。あちらの長老も答えた。「そだね」

 

地球の中でも、どこかの星でも、絶えずこうした「至高の存在」を巡ったいさかいが起きている。だが、「これこそ絶対」「これこそ真実」といえるものはあるのだろうか。相手に押し付けようとしたとき、どこかで無理が出やしないか。

 

疲労感だけをもたらした中継が終わり、地球人の中年おやじがつぶやいた。

 

「小難しい話はもういいわ。週末だ週末。飲もう!」

 

二つの星で、やけにお酒が売れたのであった。

 

~お読みくださり、ありがとうございました~

【歩き旅と思索】 47・博多~唐津を歩く(付記)

~簡単な自己紹介はこちらです~

 

博多から唐津までの歩き旅で、一つ心すく出会いがあった。

 

これは記録しておかねばと思い、旅日記とともにブログ上でも書き残すことにしたい。

 

それは、地域の人々の気持ちいい挨拶だ。

 

福岡県糸島市、なかでも古代・伊都国があった一帯を歩いていると、ちびっ子からお年寄りまで、あらゆる世代の方から気さくに声をかけていただいた。

 

ある老婦人は、すれ違いざま、十年来の知人であるかのように「おはようございます」と素敵な笑顔で魅せてくださった。

 

うなずくような仕草、少し上目遣い。品の良さがあふれていた。

 

地元のスポーツ少年団のちびっ子たちも、ランニングですれ違いざま「こんにちは」「こんにちは」。最後尾のコーチ・監督は帽子を取って会釈。こんな素敵な挨拶をされたら、この土地が好きにならずにいられないではないか。

 

挨拶は、なんということのない日常の行為だが、人と人の心をつなぐ実に大切な文化だ。

 

それは不特定多数の人であるれる大都市よりも、顔と顔が分かる地方・田舎のほうでいま少し残されているように感じる。

 

この伊都国のような文化が、世代を超えて息づいていてほしいと願う。

 

無数の古墳が今も大切に保存され、弥生の昔と変わらぬであろくのどかな小春日和の中、しみじみ感じた次第。

 

〜お読みくださり、ありがとうございました〜

 

【歩き旅と思索】 46・博多~唐津を歩く(下)糸島深江~唐津市浜崎

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旅3日目。ひたすら海沿いを歩いた。

 

博多の玄界灘と違い、唐津湾は晴れ間も味方したのか実に凪いでいた。

 

海面から底の岩場が透けて見える。美しい。

 

今日歩いた道はところどころで歩道が途絶え、やや危険を感じながら歩く。

 

行き交う歩行者はおらず、黙々と両脚を動かす。

 

浜辺に寄せる波の音が穏やかで、和む。

 

午後一時ごろ、佐賀県唐津市に入る。右足がどうもやられてやや引きづる形になる。通り沿いの寿司屋でラーメンセット(?!)をいただき、旅を終えることにする。

 

JRの最寄りで博多行き列車に乗る。

 

今回の旅も実に見どころがあった。適度に人に会い、歴史に逢い、風景に面した。満足、満足。

 

次回は唐津の名勝「虹の松原」からスタートだ!

 

〜お付き合いくださり、ありがとうございました〜

 

【歩き旅と思索】 45・博多~唐津を歩く(中)糸島波多江~糸島深江

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歩き旅2日目。

 

一路唐津を目指すつもりだったが、前日泊まった宿の管理人さんによると、一帯には古代日本の墓地である「古墳」が無数にあるとのこと。貴重な機会だ。じっくり見学して回ることにした。

 

宿から歩いて数分のところにあったのが「平原遺跡」。中国王朝の記録「魏志倭人伝」にも出てくるクニ「伊都国」の王の墓だという。

 

いやまあ、驚いた。日本人ならみんな教科書で知っている、あの伊都国が、偶然泊まった宿のこんな近くにあるとは。

 

伊都国の初代王の遺構も近くにあった。澄んだ青空の下、お天道様に暖かく包まれ、のどかにたたずんでいらっしゃった。きっと弥生の昔も同じようにのどかで安らかであったのだろう。


当時の雰囲気をわずかとはいえ嗅ぎ取らせていただき、実に幸せ。

 

この後も無数の古墳に遭遇する。どれものどかで、景色よく、心暖まる。ある小さな古墳は、真ん中に大きなクスノキがそびえていた。初春のヒンヤリした澄んだ風がそよぐ。もう、たまらん。幸せ、限りなし。

 

今日は若干早めに旅を終える。明日は再び現代人モードに戻り、海岸線を延々歩いて唐津を目指す。古墳との出会いで当初のルートをそれ、翌日の到達は厳しくなってきたが、行けるところまで行くことにしよう。

 

〜お付き合いくださり、ありがとうございました〜

 

 

【歩き旅と思索】 44・博多~唐津を歩く(上)博多~糸島波多江

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先日、三日の休みを使い九州は博多から唐津まで歩いた。

 

道中見たもの、聞いたこと、感じたことを、書きとどめたい。

 

初日は午前9時、JR博多駅前をスタート。祇園町を左折し、中州、天神を経てペイペイドーム、福岡タワーを望む。そのまま西進し、糸島方面へ進んだ。

 

天神からペイペイドームまでの道中は自転車乗りの人たちと頻繁にすれ違った。ちびっ子を乗せたお母さん、学生風のお兄ちゃん、コート姿の外国人。どの顔もなぜか真剣だ。そして結構早い。広くはない歩道を、飛ばす飛ばす。自転車同士でぶつかりそうな瞬間も見たが、ギリギリのところでフワリと避ける。中高年のおばちゃんも同じ。乗りなれてるなあ。なんだか見ているだけで楽しい。

 

都市部で、ここまで自転車乗りが行き交う光景は、ほかに見たことがない。東京でももちろんそういうシーンは見たけれど、ここまで日常の「足」として普及している感じはしなかった。博多の面白い「足」文化を味わせてもらった。

 

百道という土地をすぎ、橋をわたったところで、一挙に風情が変わってきたように感じる。そこから海岸線に歩き始めた。これが、圧巻。それは後ほど書く。午後4時、今日の目的地にしていた宿に到着。

 

・・・

 

出立した博多の大都会から、1日で景色がだいぶ変わった。

 

なんといってもシビれたのは玄界の海。

 

厳冬、荒れる玄海の波と、静かにたたずむ無数の松林。

 

その中を歩いているだけで、はらわたに寂寥感が満ち満ちてくる。


 
寂しい、怖い。だが、この心細さが、いい。人間、個人の小ささ、自然の圧倒的大きさを実感する。

 

この浜辺を歩いている途中、蒙古襲来前後に築かれた石塁の跡に通り掛かった。

 

当時から鉄砲を持っていた元軍と、弓矢しか飛び道具のなかった日本。恐怖の中で、当時の侍たちが必死の思いで築いたのだろう。

 

荒れる海原を見ながら、恐怖とも戦っていたであろう侍たちの心中を思いやった。ご苦労、さまでした。


その他、いろいろ見たが、今日の一番は上記の松原、石塁、そして玄海のオーケストラだ。

 

この日は古民家ゲストハウスに宿泊。風情がある。四畳半の部屋には書見台しかない。ああ、これがいい。

 

~お読みくださり、ありがとうございました~

 

 

 

 










【歩き旅と思索】 43・唯一出逢わなかったもの

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お天道様が上にある間、ひたすら歩く旅では、なんやかやさまざまな出逢いがある。

 

道端のお地蔵様。ジュースを差し入れしてくれる地元の住民。友達も家族もいない様子の野良犬。それぞれ、思い出があり、心の滋養となっている。

 

それでも、これまで全く出逢わなかったものがある。

 

ロマンスだ。

 

私は20代半ばまで彼女がいたことがなく、モテたことも当然なく、異性とまともに話をしたなど殆どなかった。

 

そういう経緯もあり、旅の道中では正直なところ、人生をバラ色に染め上げてくれそうなめぐり逢いを期待していた。

 

伊豆半島は西海岸を歩いたときのことだ。

 

伊豆といえば「伊豆の踊子」。日中歩き倒していれば、ひょっとしたら踊子さんのような妙齢の美しい異性に出逢うこともあったりするんじゃないかー。阿呆のような発想だが、根拠もなく期待を抱き、旅に出た。

 

沼津を出立し、西北の突端にあるキャンプ場で一泊。そこから海岸線沿いに延々と歩いた。

 

道の要所要所で、面白い標識を見つけた。「恋人岬」

 

いい名前だ。雰囲気がある。僕もおすそわけにあずかりたい。そう思ったが、当然ながら道中目にする若者はカップルばかりだった。私のような独り身の旅人は見当たらなかった。

 

寂しい、寂しいぞ。

 

昼過ぎだったか、喉が異常にかわいていたところに、とあるおしゃれな喫茶店(だったかな)を見つけた。ちょっと恥ずかしかったけど、店の中に入った。

 

やっぱりカップルばっかりだ。ものすごい場違い感を抱きながら、フルーツジュースを頼んだ。

 

これが、悲しいほどにうまかった。

 

カップルたちが逢瀬の幸せをかみしめている傍らで、私は一人「うんめえ!」とジュースのおいしさをかみしめていたのである。

 

伊豆の旅では、その後もまったく異性との出会いはなかった。ほかのルートでも同じだった。味気のない、野郎一人旅。すがすがしいほどに彩りに乏しいのが、私の歩き旅だ。

 

ただ、幸いというか、日常生活で偶然の出逢いをいただき、現在は家庭を構えることができている。

 

ロマンスへの執着から自由になった今、自分の歩んできた野郎旅人生をしこしこと掘り下げ、楽しんでいくつもりである。

 

~お読みくださり、ありがとうございました~

【サラリーマン・癒やしの和歌】14・こころのひろさ

疲れたサラリーマンに、古の和歌が響く。

 

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テレビもスマホも車も電気もなかった時代、島国で暮らしていた人々は詩を詠み、無限の深さと広さを持つ心の世界を楽しんでいた。

 

五七五七七のわずか31文字が伝える、慈しみ、憧れ、寂しさの深遠さ。とりわけ傑作と呼ばれる作品の中には、時代を越えて読む人の胸に訴えてくるものがある。

 

私にとっての和歌は万葉集であり、それは変わらないのだが、先日全く思いもよらない時代の名作に出逢った。

 

キリストも

釈迦も孔子

敬ひて

拝(おろが)む神の

道ぞたふとき(尊き) 

 

詠み手は、貞明皇后(1884年 - 1951年)。大正天皇の皇后だ。

 

私が少し前からフォローさせていただいているブロガーさんが、紹介されていた。この作品を見て、目の前の曇りが晴れるような気持ちがした。

 

日本人のメンタリティを、見事に言い表している。

 

西洋人からすれば節操がないといわれるかもしれない。ありがたいとされる神様や仏様は、何でも拝む。なんといっても、伝統信仰の神道の中にも神さまが八百万もいらっしゃる。一体全体、「信仰している」といえるのかどうかもあやしい。そういわれても仕方ない。

 

それでも、どの神様をもないがしろにせず、広い豊かな心で受け止め、あがめ奉る。こういった姿勢こそ、今のギスギスした現代社会に求められているのではないか。

 

私にとって衝撃が大きかったのは、この作品が戦争と混乱のさなかで詠まれたこともある。

 

頃はまさに国家・信仰の対決でもあった。西洋のキリスト教に対して、日本は神道を国家宗教の位に引き上げ、信仰・宗教の面でも負けまいとした。そんな時代にあって、皇室の方が、外国の神をも敬う詩を詠んだ。実に勇気のいった行為だったと思う。

 

作中にある「神」とは、八百万の神々でもあり、それを敬う日本人一人一人をも指しているように私は受け取った。私たち日本人は、尊いものすべてを受け入れる。その姿勢が大切なのです。ないがしろにしてよいものはないのです。そのようなメッセージが込められているように感じた。

 

この一首は、時代背景から考えると危険視されてもおかしくなかった作品だと思うが、皇后はひるむことなく詠まれた。驚嘆に値する。

 

心を豊かにしてくれる、こんな素敵な作品に出逢えたことに感謝、感謝だ。

 

~お読みくださり、ありがとうございました~

 

 

 

 

【ざんねんマンと行く】 賀詞交歓会で修羅場見る

今日で俺のキャリアも終わりか・・

 

300人が集う恒例のパーティーがまもなく始まるというのに、企画開発課長である矢沢の表情は冴えなかった。

 

年明け早々、日本各地で開かれる「賀詞交歓会」。各業界の企業関係者らが一同に会し、名刺交換を通してパイプづくりに励む場だ。印刷大手「凸凹(でこぼこ)印刷」に勤める矢沢は、シャープな頭脳と人当たりの良さが周囲に認められ、堅実に出世の階段を上っていた。このような交流の場は、人間の好きな矢沢にとっても楽しみで仕方ないはずだった。が、今回は事情が違った。

 

半年前のこと。信頼する優秀な部下に、一つの開発案件を託した。部下は期待に応えるべく奮闘したが、取引先の業績悪化などもあり、企画は頓挫した。企業にとって、挑戦と失敗はつきものだ。会社の上層部はむしろ、矢沢と部下のチャレンジを評価する方向に動いたが、矢沢の活躍を快く思わない直属の上司の寺山だけは許してくれなかった。

 

「お前、これだけの失敗をやらかしておいて、沙汰なしなんてことは期待するんじゃないぞ。けじめをつけろ、けじめを」

 

突きつけた「けじめ」は、矢沢の想像をはるかに上回った。

 

「ネクタイ、外せ」。言われた通りに、外した。「そしたら、巻け」。ポカンとする矢沢をあざ笑うかのように、寺山が言い放った。「巻くんだよ、ココに!」。指さしたのは、額の部分だった。「巻くんだよぉ、矢沢ぁっ!!」

 

日本では古来より、宴会の場ではサラリーマンたちがネクタイを頭に巻き、踊り出すというならわしがある。滑稽な格好を通じて場を和ませ、ムードを盛り上げるのだ。ただ、それはあくまでお酒の場でのこと。それを、「今度の交歓会でやれ」というのだ。なんたる屈辱。場面を想像する矢沢の全身から恥辱で汗が噴き出た。

 

けじめはつける。だが、勇気が出ない。恥ずかしい。どうしたらいいのか。「誰か、アドバイスしてほしい!」

 

地球上で誰も口にしたことがないであろう珍妙な願いを、一人の男が聞き届けた。人助けのヒーロー・ざんねんマン。九州の実家でおせち料理をつまんでいたが、黒豆を三粒ほど口に放り込むと、えいよぅと関東の空へと飛び立った。

 

到着したときには開会10分前。時間がない。ざんねんマン、進退窮まった。「こうなったら、励まし倒すしかない」

 

そもそも交歓会って、おめでたい場じゃないですか。一年を明るく始めるために開くんでしょう?だったら、宴会スタイルでもいいじゃないですか。楽しく楽しく!盛り上げていきましょう!矢沢さんの人柄なら、分かってもらえますよ!たぶん!

 

かつてないほどハイテンションで盛り上げたざんねんマンに背中を押されたか、はたまた土俵際に追い詰められたか、矢沢も腹を決めた。「よっしゃ、いっちょやったろう」。おもむろにネクタイを首からほどくと、戦に臨む侍のようにギュギュギュッと力強く額に巻いた。

 

ごった返す会場の中でも、矢沢の姿は目立ちに目立った。目が点になる者、いぶかしげな視線を送る者、嘲笑する者、さまざま。その中でも、興味半分で声を掛けてきた男たちに、矢沢は売り出し中の芸人よろしく元気いっぱいに応えた。

 

「おめでたい日には、おめでたい恰好!それに、そもそも『ネクタイは首に巻くもの』って、誰が決めたんですか」

 

既存の価値観に挑戦する―。それは、常に時代の最先端を追い続けている矢沢が常に考えてきたことだった。首周りに品良くたたずむネクタイは、まさに「既存の価値観」ともいえた。一見奇抜な恰好は、矢沢のチャレンジ精神を図らずもビタリと体現していた。

 

ビジネスの最前線で日々戦う企業人たちに、その恰好とメッセージは十分すぎるほどのインパクトを与えた。この宴会芸スタイルの男、決して笑いをとろうと狙う道化師ではないぞ。価値観を壊し、価値観を創る、類まれなる挑戦者なのだ。

 

もとから能力・識見とも内外に認められていたことが矢沢の面目躍如に貢献し、閉会のころには称賛をもって迎えられた。当時の映像がマスコミに流れ、「イマジネーションの権化」とのテロップ付きでも紹介された。社内では、会社のイメージアップに多大なる貢献をしたとたたえられ、やがて管理職15人をごぼう抜きしての役員就任を果たした。

 

矢沢の出世を後押しすることになった横山は、恥をかかせようと企んだことを周りに明かすこともできず、地団駄を踏むばかりだった。

 

その後、世間では「頭ネクタイ」が日中でもじわり浸透し始めた。朝夕の通勤ラッシュ時の列車内は、どこか宴会ムードが漂う和み空間へと変わっていた。

 

新春早々の大ピンチを、見事にチャンスへと切り替えた。「あのヒーローが私を理解し、勇気づけてくれたおかげだ」と腰が低い矢沢に対して、たいしたサポートもしてないざんねんマン。「励まし倒すのもときには大切なのさ」としたり顔なのであった。