おじさん少年の記

疲れた時代に、癒やしの言葉を。からだはおじさん、こころは少年。

【ざんねんマンと行く】 ~第38話・悪人正機(上)~

はあぁぁ

ため息が、また漏れてきた。

駅前の大衆居酒屋。カウンターで週末の一杯を楽しみにきた、人助けのヒーロー・ざんねんマンは、隣から漂ってくる重い空気におされたか、ジョッキをあおる手を止めた。

チラリと横に目をやってみる。スーツ姿の若い男性だ。一人。ざんねんマンが店の暖簾(のれん)をくぐったときには、既に座っていた。熱燗の徳利が、寂し気に並んでいる。

何か、悩みがあるのかなあ

ざんねんマンの中で、少しずつ、人助け魂がうずきはじめた。ジョッキの残りを飲み干すと、なじみの店員に「熱燗2合で!あと、鶏軟骨もね」と呼びかけた。

カウンターに置かれた徳利を、そっと隣の青年の方に向ける。どうですか、一杯。私、今日一人できてましてね。たまたま隣り合った縁で、一緒に飲みませんか。

カウンターに視線を落としていた青年が、驚いたように顔を挙げた

「ああ、どうも。いいんですか」

モチのロンよ、とほほ笑むと、まだ湯気の沸く透き通った液体を青年の猪口(ちょこ)に注いだ。

さっきからお兄さん、ため息つかれてますね。何か、あったんですか。話せることがあったら、聞き役にはなれますよ。人に話すだけでも、ちょっとは気が楽になれるもんです。

不惑を超え、人生経験だけは青年よりも豊かなざんねんマン、猪口に口をつけながら、青年の言葉を静かに待った。

「僕、最悪な人間なんです。彼女とけんかしたときに、『勉強できない奴が偉そうなこというな』って言っちゃったんです」

有名な大学を卒業した青年は、とある合コンで事務職の彼女と知り合った。気立てがよく、周囲への気配りができる素敵な女性だった。ただ、家庭の事情もあり高校を卒業するとすぐ就職していた。

惹かれ合った二人はやがて付き合い始めた。が、幼少期から挫折知らずで過ごしてきた青年にとって、女性の生い立ちにはどこか物足りないものを感じていた。成功への階段を上っている僕に比べたら、哀れなものだ。心の中に、隠すことのできぬ軽蔑の念が横たわっていた。

たわいのない口喧嘩で、肚の底でよどんでいた醜い心が顔を出した。青年の、冷たさを伴った一言は、女性の心に冷や水を浴びせるに充分すぎた。二人の間に、越えることのできない溝が入った。あっという間だった。女性は、青年との連絡を一切、絶った。後悔、先に立たず。青年は、謝罪の言葉を伝える機会も与えられず、ひたすら己の傲慢さを呪う日々が続いた。

そんなことが、あったんですか。

聞き終えたざんねんマン、しばし言葉を発することもなく、口に含んでいた液体をゴクリと飲み干した。

はたから見ればただの別れ話だが、まだ若く失敗知らずの青年にとっては衝撃の大きすぎる出来事のようだった。

「僕は、最悪だ。人間として。一生懸命生きてきた人の尊厳を、心ない一言で打ち砕いてしまった。自分の醜さに、耐えられないです。苦しい」

青年のうめきが、ざんねんマンの胸にも重くのしかかった。悪をなし、そのことを悔いている人間に、なんと言葉を掛けたものか。

~(下)に続く~明天