おじさん少年の記

疲れた時代に、癒やしの言葉を。からだはおじさん、こころは少年。

【歩き旅と思索】 ~11・考えることの限界

学生時代、「存在」というものについて考えた。

 

積極的に考えたかったわけではない。自分が存在するということ、他人が存在するということ、この世の中のあらゆるものが存在するということが、本当にそうといえるのか、確信が持てなくなったことが根っこにある。

 

思春期であればだれもが程度の差こそあれ抱く疑問ではないかと思う。私もその一人だった。私の場合は、その疑問と表裏一体の形で、不安が伴った。

 

瞳に映るものが、映るということをもって、どうして「ある」とみなすことができるのか。手にものを握る、そのものの感触、重さの感覚をもって、存在するといえるのか。何とも不確かな認識で我々人間が暮らしているように感じられ、ひどく不安にさいなまれた。


そこからの脱却を図るために始めたのが、哲学と歩き旅だ。最初に取り組んだのが哲学。ハイデッガーデカルトなど古の賢人の著作に当たってみた。疑問については「その通り!」と膝を打つ指摘が多かったが、打開策については納得できる説明がないように感じた。

 

たとえばデカルトの「われ思う、ゆえにわれ在り」は、「思う」という現在進行形で進む行為・現象自体を存在の根源に据えるという点で根拠がしっかりしている。しかし、その後に続く「われ在り」で輪郭がぼやけた。

 

どうしていきなり「われ」が登場するのか。ただ単に「思う」という行為があるだけではないか。強いていうなら、「思う」という行為を統べる主体を、仮に「われ」と呼んでいるだけではないか。行為が先にあり、「われ」は後から結果的に類推される架空の存在にすぎないのではないか。

 

若造の屁理屈とみられるだろう、その通りだ。が、とにかく私は存在にまつわる不安を解消したかった。

 

で、歩き旅を始めた。考えても答えは出ない。自分の体で、存在を成り立たしめる「空間」を感じるしかない。

 

香港スターがいったように、「考えるな、感じるんだ」の中に、真実があるのだろうと考える。

 

まだまだ歩きも足りない、疑問も不安も解消することはできない。それでも、やはり歩く中で得る感覚、気づき、発見というものは、ある。地球上の、さらに過去にさかのぼってみれば、同じようなことで悩み苦しみ不安に陥っている(陥った)人も少なくないのではと考える。その人たちに(あるいは未来の人たちに)何か安らぎとなる言葉を伝えるべく、今後も仕事の合間を縫って、ちびちびと歩き旅を続ける。

 

~お読みくださり、ありがとうございました~

 

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