【歩き旅と思索】 28・道中で一番多く出逢うもの
歩いて土地と土地を一筆書きのようにつなぐ旅を始めて20年以上がたつ。
さまざまな人に出逢い、史跡に足をとめ、景色にこころを奪われた。
それぞれの場面が脳裏に焼き付いているが、こうした印象的な出来事とは別に、こころの中で暖かい存在感を発揮しているものがある。それはおそらく歩き旅の中で最も多く出逢ってきたものだと思う。
道端の、お地蔵さまだ。
幹線道路でこそあまり見ないが、1本それた生活道路に入るとあちこちにたたずんでいらっしゃる。あまりに多すぎて、特に20代のころは一体一体をとりたてて意識することはなかったが、自分の人生も折り返し地点を迎えてきたころ、自然と目が向くようになった。死や生とつながりのある存在でいらっしゃるからだろうか。
お地蔵さまの多くが、かわいらしいちゃんちゃんこを着たり、帽子をかぶったりと、おしゃれをしている。それだけ地域の人々から親しまれているということが分かる。
お地蔵さまには、特定の宗教や小難しい経典とは無縁の、親しみやすさと暖かみがあるように感じる。無言で微笑み、道中にある人の無事安寧を祈ってくださっている。
お地蔵さまの存在を通して、日本のあちこちが目立たずともしかとある優しさと慈愛に満たされていることを感じる。日本は今、少子高齢化と人口減少で地方の衰退が叫ばれているが、まだまだどっこい。地方の底力を感じることができる。
栃木県と福島県の間のあたりにある集落を通りがかったときのことだ。各家庭の表札にたしか屋号(苗字とは別の呼び名)が刻まれていた印象的な地域だったが、その一帯のはずれのところに、一体の大きなお地蔵さまが鎮座していらっしゃった。
お地蔵さまと呼ぶべきか、仏さまという言うべきか分からないが、とてもにこやかな表情で、通りがかった私は自然と足を止め見上げた。
そこで素朴に感じた。ああ、この地域には人々の温かい心が息づいているんだなあ。元気をいただき、そのまま山間地を歩き通して白河の関にたどり着いた記憶がある。
一体一体には名前も歴史に残るようなエピソードもないのかもしれない。だが、たしかに道中の人々を見守り、励まし、元気を与えてくださっている。ありがたいことだと感じる。日本の素晴らしい文化・伝統の一つだ。
歩き旅のゆっくりしたスピードだからこそ見える景色と発見、出逢いがある。これからもお地蔵さまをはじめ、こうした名もないけれどありがたい存在と触れ合っていくつもりだ。
~お読みくださり、ありがとうございました~