変わり者の大将の紹介↓
愛想はないのに悔しいほど愛嬌があり、一部のマニアから熱烈に愛されていたのが、私も入れ込んでいた居酒屋の大将だった。
いつも余裕をぶっこいたような顔をして、店が儲けても儲からなくても涼しい顔をしていた。
なにか悩みやら苦しみやらとは無縁のような、これまでの人生でも巡り合わせたことがないかのような雰囲気を醸し出していた。今考えると、そういった大将の余裕ありげな空気に私は惹かれたのかもしれない。人生、余裕はとても大切だ。
だが、店に足しげく通ううち、常連客の皆さんと深く飲み語らううち、その大将にも越えがたいような苦しみを味わっていたことを聞いた。
私が大将の店に通うようになる数年前のことだった。ある朝、大将が目を覚ますと、世の中が真っ暗だった。突然のことだった。夜だったわけではない。大将は、前触れもなく、視力をほぼ失ったのだ。
生まれながらに血管が細かったようだ。それは後に大将の命を縮めることになる脳梗塞としても現れるのだが、当時はまず目の血管にきた。
細い血管が圧迫されてしまったらしい。見えるのは真正面のごく一部の丸のみ。あとは、漆黒だ。
「あんときは、気が狂いそうやった」
後日、大将本人に当時の体験について尋ねてみると、珍しくひきつった表情で漏らした。視界がほぼさえぎられた期間は約1年におよんだという。
何も見えず、大好きな店も開けず、一緒に馬鹿話に花を咲かせる常連客にも会えない環境はどれほどつらかったことか。私なら恐怖で人生を投げ出したかもしれない。だが大将は違った。身悶えしながらも希望を捨てることなく、生き抜いた。それだけでももう一生分の体験をしたのではないかと思う。大将は、すごい。
出口の見えない絶望のトンネルをくぐり抜ける上で命綱となったのが、心ある友の存在だった。常連客であり幼馴染であるX氏が、頼んでもいないのに、毎日毎日、弁当を送り届けてくれるようになったのだという。
社会弱者となってしまうと、外出すらままならなくなる。まして偏屈者の大将だ。人の御厄介になろうとはしなかった。ひたすら店にこもり続ける自分のことを心から心配したであろうX氏は、それこそ毎日毎日、命の糧を渡し続けてくれた。いわずもながらだが、体だけでなく心も気づかい、まかり間違って早まった行動をしないよう目を配り、世の中との接点を保ち続ける役を担い続けてくれたのだ。
「あやつがおらんかったら、俺は生きてねえ」
あるとき、大将がしみじみつぶやいた。大将なりの、精一杯の感謝の言葉だと感じた。
これが友達なんだ。
黙って、支える。誰に言うでもない。そやつのために、やらんといけんことを、やる。
大将が漏らした「あやつがおらんかったら」の一言に、私は思わずまぶたが熱くなった。誰かに対して心から抱く「ありがとう」の真心が、こもっていた。少なくとも私は感じた。
一方のX氏は、当時の行動を自慢するでもなく、話を振っても「そんなこともあったかなあ」と受け流すのが常だった。淡々と語る様子の中に、心から大将を案じていたであろうことを私は感じた。
私にとって大将の店は、ただ酒を楽しむだけの空間ではなかった。お酒も料理もおいしいけれど、もっと温かい何かを与えてくれる、ときには常連同士で与え合える、欠くことのできない人生の一段階となった。
~お読みくださり、ありがとうございました~