変わり者の大将の紹介↓
男やもめの大将が営む居酒屋はどこまでも油くさく、むさくるしく、しかしそれだけにアジがあって、一部の男性客にとってはたまらない楽園だった。
一見、教育とは無縁のようにみえた。が、実は大将は学のある人だった。
白い門で知られる、あの大学を現役で合格し、ストレートに卒業していたのだ。
専攻はたしかドイツ文学(か哲学)。なんだかカッコいい。道理で、店はときおりバッハなどドイツ人音楽家の楽曲が流れていた(これは私の思い込みかもしれない。大将はお父様の影響もあってクラシック全般が好きだった)。
学がある、とはいったが、大学でしこたま勉強したというわけでもなかったようだ。私の聞き覚えている範囲では、大将は入学後数か月ですっかり授業に出るのをやめた。で、同郷の男連中の下宿先に押しかけては麻雀やら酒やらで楽しいナイトライフを送っていた。ただ、ちゃっかり単位は取り、無事に卒業したところは抜け目ない。やるのう。
遊んでいるようで、勉強もおろそかにしていなかったところも、私にとっての大将の魅力だった。
大将の「学」好きをにおわせるものが店にあった。カウンター越しの壁に掲げられていた、今日のおすすめを手描きしたホワイトボードだ。そこには不動の四番というべきか、どっしり居座ったまま動かない一品があった。
「Wasser Und Luft ¥0」
ドイツ語をかじった方ならわかるだろう。「水と空気」だ。
なんや、しゃれとるやん。大将、いけてるやん。
アルファベットの、よくわからんメニューたった一つが、味気のないメニュー表に品というか、学びの芳り、奥深さのようなものをもたらしていた。
私もたまたま大学でドイツ語をかじっていた。だから店に入ってすぐ気づいた。大将の、ユーモアの中ににじむ知的好奇心・テイストにすごく惹かれた。
大将は語学全般に関心が深かったのだろう、一緒にスナックにいったときはよく洋楽(英語)を歌った。発音はいうまでもなく、抑揚、リズム、実に流暢で、美しかった。私も語学好きなのがどこかで分かったのかのか、よく私にも洋楽の歌でマイクを渡してくれた。大将がカウンターで頬杖を突きながら、気持ちよさそうに私が歌うのを聴いていたのをよく覚えている。
天下御免の遊び人のようにみえて、学びを愛する、深みのある人だった。
ただ、もしまた大将と話ができるとしたら、ちょっとした意地悪も兼ねてこう聞きたい。
大将、wasser とluft 以外に、覚えているドイツ語、ありますか?
・・・
「しゃあしい!こーん。」と、元気な声が返ってきそうだ。
~お読みくださり、ありがとうございました~