おじさん少年の記

疲れた時代に、癒やしの言葉を。からだはおじさん、こころは少年。

【歩き旅と思索】 ~13・意味づけられた空間からの解放

大学生のころに歩き旅を始め、20年近くが過ぎた。

 

ただ歩くというスタイルの旅に、なぜこうも惹かれるのか、自分でもよく分からない。考えて動いているというよりも、体が喜んでいるからそのように歩を進めている、といったほうが正直なところかもしれない。

 

少なくともいえるのは、歩く旅をすることで、自分が普段見聞きし、過ごしている日常空間から解き放たれる、ということだ。

 

私は日々、起き、通勤し、屋根のあるオフィスでパソコンを打ち、やがて退社し、人の行き交う街路を少し歩き、時折寄り道もしながら、家路に就く。どの行程も、周囲はすべて現代社会人を取り巻く環境として、ある程度限定された意味を伴って瞳に映る。

 

街路の両脇に連なるのは、なにがしかのビジネスを手掛ける企業が入る「商業ビル」であり、夜道を照らし現代人の安全を守る「街灯」である、といった具合だ。

 

こうした、ある程度絞られた形で意味づけられた空間から、少しばかりでも、距離を置くことができる。

 

歩を進め、ただ空間を空間として感じ、見るともなく見る。瞳に映る、といったほうが的確か。こうしていると、実に自由で奥行きのある、空間そのものが現れてくるように感じる。

 

会社員となって最初に迎えた夏の日。熊本の阿蘇近くを出発点に、久々となる歩き旅に出た。慣れない仕事で抱えていたストレスから解放されたこともあるが、久々に歩き旅という自分自身に戻れる行為を再び始めたことで、自分の心も、周りの景色も一変に活力を取り戻したように感じた。意味づけられた日常空間から、ものの三歩で解き放たれた。そう記憶している。

 

人それぞれに、ぴったり合った旅の形があると思う。私の場合は、それが歩き旅だった。

 

~お読みくださり、ありがとうございました~