両脚を交互に前に出し続けるだけの旅を通して、日ごろ無意識に受け入れている現代社会の枠組みから自由になる。これも、歩き旅の醍醐味だ。
熊本県は阿蘇を出発し、熊本市を経由して天草を目指したことがある。
熊本の市街地に入る手前、たしか水前寺公園という公園があり、そこで一休みすることにした。会社員になって5か月目、久しぶりの旅ということもあり、結構疲れていた。私は公園にあるベンチに横たわった。仰向けになった。
頭上に、大きな樹木があり、木漏れ日から差し込む日の光がチラチラとして実に気持ちよく感じた。
このとき、旅をしていることも、会社員であることも、水前寺公園という公園にいることも、ほとんど頭の中から抜け落ちていた。ただ、この光を味わった。
樹木は、現代社会が用意した「公園」という特殊な空間における公共物だ。勝手に手を加えてはいけない。こうした、現代人として当然とらえるべき視点から、自由になった。
その瞬間の自分の体験内容を、言葉で実況するとしたら、
「私が公園の木を眺めている」ではなく、主語のない「緑」だった。
見たものを、見たままに感じる。社会的背景や規範といったものにからめとられず、出逢ったままに風景を感じ、受けとる。日がな一日歩き続けていると、ふとそんな瞬間に浸ることがある。
狙ってその瞬間をつかまえることはできない。時々、やってくるタイミングを、味わうのみ。だが、それだからこそ深みも楽しみもある。