【歩き旅と思索】 ~12・歩くスピードだからこそ感じ取れる風景美
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一歩ずつの移動には、ほとんど風景の変化はない。やや飽きることもたびたびだ。だが、それだからこそ、視界が突然開けたりすると、言葉にならない感動を覚える。
静岡県は沼津から西海岸に向かって歩みを進めていたときのことだ。
海岸線に出るため、しばらくクネクネと続く上りの林道を抜ける必要があった。これが結構、傾斜があり、ひざに負担が掛かった。
頃合いは夏。ちょうど木陰に守られる形になり、助かったが、どこまで続くのか分からない上り道を進むのは正直、気が滅入った(当時はスマホがなく、地図を頼りに歩くしかなかった)。
1時間半ほど歩いたころか。「もう勘弁してくれぃ」と誰もいない山道でぼやいていると、不意に、明るい陽射しがまぶたを照らした。道が開けたようだ。
数歩進み(記憶の限り。本当はもうしばらく進んだかもしれない)、言葉を失った。
大海原が、広がっていた。
右手に富士、左手にはどこまでも続く太平洋。
いつしか自分は、かなりの高さがある崖のてっぺんまでたどり着いていた。そこから眺める景色は、また格別だった。陽射しをいっぱいに浴び、照り返す海原は実に雄大で、眺めているこちらまで心がどこまでも広がっていきそうだった。
もう一つ、驚きがあった。これだけ広大な景色なのに、波の音が、全く聞こえなかったのだ。
全くの、静寂。車の行き交う音もしない。これだけの見事な光景を、私一人が独り占めさせてもらっているような、特別な感慨を覚えた。ありがたい、と感じた。
どこまで続くか分からない林道で、鬱々と歩を進めてきたことが、この景色の美しさを味わう伏線になった。そう感じる。
その後、社会人となり、家族を連れレンタカーでこの地を訪れた。感動をシェアしたかったからだ。家族はもちろん感動してくれた。だが、私が歩き旅で感じたような胸の高鳴りまでは共有できなかったようだ。私の欲張りというべき期待だった。
こうした体験を、他の地を訪れたときにも感じている。「むおおお」と言葉にならない叫びが口を突いて出たことがある。それはまた別の機会に触れたい。
~お読みくださり、ありがとうございました~