【歩き旅と思索】 ~7・怖いもの~
~簡単な自己紹介はこちらになります~
歩き旅をしている中で最も怖いもの(怖かったもの)は、三つある。不審者、深夜の動物、それから幽霊である。
特にどれが一番怖かったかというと、それはなかなか選びづらい。だが少なくともいえるのは、動物とは交渉ができないということだ。
熊本県は清流・球磨川に沿って上っていたときのことだ。日も暮れ、キャンプ場もなく、私は川沿いに開けた野っ原にテントを構えた。
人気もなく、実に静か、爽やかで、夏の終わりをしみじみと一人味わうことができた。
そこまではよかった。深夜、ぐっすり寝入っていると、「ブヒブヒ」と獣(けもの)の何とも元気のよい鼻息が遠くから聞こえてきた。その音は、少しずつ、少しずつ、私のいるテントに近づいてきた。
ついには、おそらくテントから2メートルほどのところまできた。「ブヒブヒ」の後に、小さな「プヒプヒ」までいくつか聞こえた。これは間違いない、親子連れだ。
それまでの旅で、各地の住民から野宿のアドバイスをもらっていた。「親子連れのイノシシは危ない」「命の危険もあるから気を付けろ」と。イノシシの母親は、子を守るため必死に襲ってくるのだという。牙が人間の太ももや腰のあたりに刺さると、出血でどうにもならない。
その親子が、もう細かな息遣いまで聞こえる距離に近づいている。私は思った。「父ちゃん、母ちゃん、ごめん。おれ、ここでイノシシの母親に刺されて死ぬかもしれん。大学まで行かせてもらったに、申し訳ない」。
これは本気だった。もう、逃げられない。なんたって、周りに民家はない。携帯も、電波が入るか入らないか微妙なエリアだった。
もうどうしようもない、ひたすら気配を消すしかない。息を静かに、もしイノシシの母親が私を襲ってきたときにそなえ、プロレスラーのアントニオ猪木がモハメドアリと対決したときのような恰好(仰向けになり、足を伸ばし、手はファイティングポーズをとる)で数十分、構えた。
結末は突然訪れた。ふいにテントの外から「ブビヒヒヒーと悲鳴のようなものが聴こえ、同時にガラガラガラと土砂の崩れる音が響いた。ときをおかず、小さな「プヒヒヒー」も続いた。
どうやら、そばを流れていた小川に向かって親子ごと転げ落ちたようだった。その後、イノシシ親子は再びブヒブヒとうなり声をあげながら、小川の上流に向かって遠ざかっていった。
私は助かった。いや、たまたま、助かった。あのまま一人、闇夜の中でイノシシの母親に襲われていたら、ひとたまりもなかったろう。なにしろ相手は獣だ、「ちょっと待ってくれ、お金あげるから許して」といった交渉は通じないのだ。
獣は、恐ろしい。そう考えると、粋がった不良少年たちに絡まれることのほうがややもするとましのように思えてくるのである。もちろん、まみえたくは、ない。
とまれ、たまたま命拾いした私は、天に感謝し、もう二度と人気のない野っ原でテントを張らないと決めた。そういえば、その野っ原には栗の木が難本か植わっていた。
こうした危ない目を何度かみながら、現在まで約20年、歩き旅を続けている。
怖さを味わいながらも、やはり醍醐味に魅かれ、やめられないのが歩き旅だと感じている。