おじさん少年の記

いつまでも少年ではない。老いもしない。

【歩き旅と思索】 ~17・「私」の前に体験がある~

~簡単な自己紹介はこちらになります~

ojisanboy.hatenablog.com

 

私が歩き旅を始めた直接のきっかけは、学生時代、存在の不安に悩まされたことにある。
 
存在するとはどういうことか。私の存在とは。他人は果たして本当に存在しているのか。そういった、一見阿呆なことを、無限にあふれるような学生時間の中で、考え、苦しんだ。
 
ただ部屋の中でうんうん唸っていても仕方がないと、やむにやまれず動き出したというのが、正直なところだ。
 
この、「考えるより動く」「動いてから考える」といったような姿勢、考え方に、それなりの意義があることを、とある人物が短い言葉で表わしていた。
 
「個人あって経験があるのではなく、経験あって個人があるのである」
 
京都大学で長く教鞭をとった哲学者、西田幾多郎だ。彼の代表作とされる哲学書善の研究」の序文に登場してくる。
 
例えばデカルトの「我思う、ゆえに我あり」のように、「我」という存在を前提として出立する姿勢にはひとつ確固としたものがあるように見えるが、これでは「我」の存在は証明できても第三者の存在にはたどり着けない。
 
西田は、逆を行った。「思う、ゆえに“我”というもの(統一するもの)が想起される」、といった意味合いだ。
 
私とあなたが、公園でくつろいでいる。ともに、早春の青空を眺めるともなく眺めている。漂う白雲に魅せられている。こうしたとき、「私」「あなた」「白雲」が別個に存在するーと無条件に受け止めがちだが、そうした判断を下す以前の状態が、まだあるようだ。
 
経験しているのは、無理に言葉にするなら、風の「サラサラ」であり、まぶたの向こうにただよう「白」である。隣にすわるあなたと共に感じる「のんびり」だ。
 
区別を下す以前に、私たちがともに経験している出来事、状態。ここから、派生的に「私」「あなた」「白雲」が分かれてくる。
 
私もあなたも、確固独立した存在とはいえないのかもしれない。視界に映るもの、聴こえてくるもの、あらゆるものが、一つの何かを共有している。
 
この「体験」というものに浸ったとき、存在の不安がわずかなりとも癒される、そのように私は期待し、歩き旅を続けている。
 
ちなみに、上記の西田の言葉には、引き続いてこのような言及がある。
 
「・・との考えから独我論を脱却できた」
 
独我論とは、読んで字の如し、世の中には自分しかいない、あるいは自分の存在しか証明できない、という主張だ。これを西田は「脱却できた」と宣言している。この言葉にはものすごく勇気を与えられた。
 
正直にいうと、存在の不安というものは拭えない。これから先も、苦しむのだろうと諦めもしている。それでも、不惑を過ぎて唸るばかりも能がないと諦め、少しでも感じ気づいたことを綴っていくことにする。
 
~お読みくださり、ありがとうございました~