おじさん少年の記

いつまでも少年ではない。老いもしない。

【短編・2】主人公

煤(すす)の付いた繊維の表面に、ギュイと押し付けられた。

 
うむをいわさぬ強い力を与えられ、表面の上を前に後ろにとこすれて動いた。
 
これが世界との、最初の出会いとなった。
 
真っ白で美しい立方体の形をしていた体躯も、繊維に押し付けられ、こすれこすれしていくうちに、やがて丸みを帯び、手あかが付き、すっかりくたびれた格好となった。
 
使い主にとっては、しかしそちらのほうが相性がいいようだった。
 
繊維と密着し、そこに付着していた煤を、自らの体躯とからませてぬぐい取る。体躯はどんどん痩せ細るが、丸みを帯びるほどその密着度合いも高まり、作業ははかどるようだった。
 
使い主は、せっせと体躯を使った。一生懸命な表情で繊維の面をにらみ、時折気づいたかのように体躯を持ち上げては煤をぬぐい取った。
 
使い主にとって、体躯は友であった。何という名前をもらったわけではないが、その日そのとき、いてくれないと困る存在であった。その機能を越え、いること自体で安心をもたらしていた。
 
使い主と体躯は、しばしのときをともに過ごした。部屋は明るくなり、暗くなりを何度か繰り返した。
 
いろんな表情を眺めた。あるとき、使い主は悶々とした顔つきで平板に向かっていた。あるときは何かひらめいたかのように嬉々とした顔つきで傍らのスティックを走らせた。どうかしたときは、色が伴ったかと思えるほどに潤みを帯びた瞳で、繊維の表面に向かっていた。繊維を折りたたむと、別の誰かに届けるのか、いそいそと部屋を出ていった。
 
一緒にさまざまな場面に向き合い、共同作業を進めるうち、体躯はますますか細くなっていった。もう力を充分に入れることができないほどに小さくなったころ、使い主は少し残念そうに息をついた。
 
お母さん、今度また新しいの買って。
 
意図せずこの世に現れ、縁あって出合った使い主の下、つかの間ではあったが、世界を味わう体験をした。もはやその使命も存在意義もすっかり薄らぎ、いまや最期のときを迎えるばかりとなった。
 
体躯は、もはやつかむにも値しないほどに小さくなった。あるとき、突然、使い主につまみ上げられた。何という余韻もなく、半透明で大きな大きな膜の世界に放り込まれた。
 
静寂だけがあった。やがてドンという音とともに暗闇が広がった。そこからは、変化のない無であった。
 
体躯には意識と呼べるほど高尚なものは持ち合わせていなかった。ただ、使い主の笑顔、思いつめたような表情、知的な好奇、期待、落胆、こうした一切の姿が、体躯の体験として残された。
 
髪を結った、まだ頬に丸みのある使い主とは、永遠のさよらならだ。あれほど一体感を共有した体躯の存在も、使い主の記憶から、あれという間に消え去ろうとしていた。
 
使い主の顕在意識からは、確かに姿を消したようだった。体躯は使い古されればあれという間に代わりが提供される。一つ一つに個別の思い出など残るはずもないのだ。だが、ただの物ではあっても、それぞれがしかとした存在であることに違いはなかった。言葉の交流はできなくとも、使い主との間に、個別具体的な関係はしっかりと築かれていた。そのときそのとき現れる心情を、共有していた。
 
隠れた同志であった。
 
一つ一つの物に、使い主の存在を彩らせる力があった。その出会いと体験は、世界のそこかしこで展開されていた。
 
主人公は、物を含めた存在すべてであった。
 
~お読みくださり、ありがとうございました~