三角にとって、丸はなんともひ弱な存在であった。
角がない。ツンツンした、自己主張というものがない。
存在たるもの、なにがしか己の確たる個性を打ち出すべきである。三角には、そのような考えがあった。
丸は答えた。いや、つぶやいた、というべきか。
あなたのいうこともわかりますわ。そうおっしゃるのなら、そうなのでしょう。
三角は、ますますイライラするのを心の中に感じた。丸には心に余裕があるのだ。私のことをまともに相手にするほどの切迫さも、持ち合わせていないようだ。
正直にいえば、やっかみのようなものがあった。
角なく、すべてのものに平等に接する。どのような存在が丸をとらえても、同じように丸であり、姿勢は変わらない。
しなやかというべきか、主張がないというべきか。存在が大きいという言葉は使いたくないが、どうもそのような鷹揚なものを感じずにいられない。
三角はしかし、譲れなかった。私の私たるゆえんは、内側の角度をすべて足すと180度(直線)になるという、実に美しくエレガントな性質にある。幾何学の美だ。私にしか体現できない真実がある。偏狭といわれようとも、私は私の美を貫くのみだ。
自らに言い聞かせ、鼓舞しようと努めたが、それでもどこか自己の存在にふわふわした不安定さと心もとなさを感じる。丸のようにとらえどころのない懐の深さを、自分は持ち合わせていない。このような存在で私はよいのか。煩悶した。
気付くと四角があった。形のとおり、どっしりと安定し、三角の悩みを見通したかのようでもあった。
存在するもの、線をまとうものには、すべからく各々の形というものが生まれるのである。角があるもの、角なくとらえどころのないもの、さまざまだ。どれをどう批判しようと、称えようと、絶対的な評価の基準というものはどこにも存在しないのではないのかな。
私は四角である。四隅があり、安定している。見掛けはそう、六角形ほど恰好よくはないけれども、形あるものの代表格としてそれなりの存在感は示せているのではないかと思う。いばる気持ちは毛頭ないが、かといって卑下するものでもない。ただ淡々と自らの存在を受け入れるのみだ。
三角は、窮屈に感じていた己の存在が少しばかり身軽になるのを感じた。形そのものは変わらない。ただ自らの心持ちだけが、ほんの気持ち程度だが、余裕らしきものを持ち合わせた。
点の集合が線を生み、線のつながりが無限ともいえるさまざまな形状をつくった。それぞれに個性が宿り、魅力と難点を伴うことになった。私の心の内にたたずむ、確かな誇りともどかしさは、どちらも真実であり、どちらも忌避すべきものではないのかもしれない。どちらとも私であり、これが私の存在そのものなのだ。
三角は丸を忌み嫌うことを止めた。いや、止めるよう努めることにした。己の心の中で、丸の持つ個性というものを理解し吸収しようと努めることにした。
三角の中で、丸が誕生した(内心円)。こころの中に、少しばかりゆとりと優しさが生まれた。
再び己の存在を自覚したときには、周りを新たな丸(外心円)がやわらかく包んでいた。
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