おじさん少年の記

いつまでも少年ではない。老いもしない。

【随想】大将と人生

20代のころ、行きつけにしていた居酒屋があった。
 
大将は年のころアラフィフ。兄弟姉妹はおらず、両親は既に亡く、親類関係も途絶え、天涯孤独だった。
 
だが天性の朗らかさと人懐っこさが幸いしたのか、少ないけれど決して離れないコアなファンたちによってしっかり支えられていた。
 
あるとき、ほかに客がいなかったので、ほろ酔いがてら尋ねてみた。どうしても聞きたかった。
 
大将、大将は独り身だけど、さみしくないん?
 
大将は、なーんかそんなことか、とでもいわんばかりにつまらなそうな顔をした。そして、やや小ばかにするようにつぶやいた。
 
馬鹿、こーん。お前も、そこらへんのカエルも、虫も、おんなしようなもんじゃろーが。おれんとっちゃ、みいんな子どもみたいなもんじゃあ。
 
本意からそう思っているようだった。言葉の端々に、空気に、生きているものへの愛着のような温かいものを感じた。
 
私は、そのとき思った。そっか。人間も、動物も、草木も、たしかに、みいんなおんなじようなもんや。生き物なんや。一緒なんや。
 
それまで、考えもしなかった。私は人間で、家族に恵まれた会社員で、生まれ育ちという履歴があって、そこに縛られ、一方で誇りも持ち、鎖でしっかり人間社会につながれ、自らつなぎとめ、生きてきた。人につながっていないと生きていけないと無意識に感じていた。だが、そんな思い込みの鎖を、大将はあっさり手放していた。
 
大将は、自由人だった。
 
私には家族も兄妹も親戚もいるが、もし仮にすべての縁者と離れ離れになってしまったとしても、寂しさに悲嘆することはないのだ、そのような希望を抱くことができた。目を洗われるような感覚を覚えた。
 
その大将は少し前、コロナの混乱の中でこの世を去った。私は仕事で忙しく、別れの場にたどり着いたときには既に骨格の人となっていた。白く、固さがあり、若さを感じさせる骨はつまみあげるのがつらかった。お骨を壺にそっと入れ「大将、あの世でゆっくりしてな」と心の中でささやいた。
 
一見孤独な環境にあっても、悲嘆することはない。ゆるくあたりを見回せば、同じように生きている仲間たちの存在に気づくことができるかもしれない。人間からも、人間以外のものたちからも、元気を与えてもらえるはずだ。
 
もろもろのことがあり、少し疲れたある日、ふと大将のことを思い出し、自然と力が蘇ってきた。
 
大将、さまさまだ。
 
~お読みくださり、ありがとうございました~