おじさん少年の記

疲れた時代に、癒やしの言葉を。からだはおじさん、こころは少年。

歩き旅と思索


私は大学2年生のころから歩き旅をしている。


ひとつのまちを出発し、日が昇っている間は歩き、どこかあたらしい土地で休む。


日が明けたら、再び歩く。次の土地に着く。休む。次の日も同じだ。


こういう形で点と点をつないでいき、振り返るとおそらく2000㌔は歩いた。


私の頭の中には、日本列島のオリジナルグーグルマップが埋もれている。たまに脳内再生するが、これが結構楽しい。例えば、超早送りで東京~鹿児島間の沿道風景をリプレイできるわけである。


初めてこれに挑戦したときのことを綴りたい。


大学2年生の冬。時間ばかりはたっぷりある中で、私は余計な考え事にうなされていた。


以前書いたが、独我論という思想にとらわれ、透明な牢獄に押し込められたような息苦しさを感じていた。


「空間」というものが実在することを確かめたかった。奥行きがあることを実感したかった。阿呆なことをと思われるかもしれないが、当時真剣に悩んでいた。


思いついたのが歩き旅だった。


自分の体を使って、空間の広がりを感じたい。


私は当時関東に住んでいて、実家は九州にあった。二つの土地は相当に離れていて、とても一つの空間内に存在するとは感じられない。例えば九州の人間がテレビニュースで「東京は大雪です」と知らされても、別世界の関係ない話のように受け止められる。


このように肌感覚では個々独立しているようにおもえる二つの土地空間を、自分の脚で歩いてつなげることができたなら、空間というものの具体的な広がりを肌身にしみて感じられるのではないかと思った。


さて、小難しい話ははしょろう。そろそろ出立せんと、読んでくれちょる人が飽いてトイレに行っしまう。


体力に自信は全くなかったので、とりあえずの目標に箱根越えを掲げてみた。


当時暮らしていたのは百合ヶ丘という山間の土地で、初日に藤沢、2日目に小田原、3日目箱根芦ノ湖、最終日に静岡沼津という日程を仮に組んだ。


初日で断念することになるかもしれないが、ええままよ。12月下旬の早朝、えいやと下宿先の玄関を出た。


たしか津久井街道という名の準幹線道路を西に進んだ。どこかで南に曲がり、しばらく進むと右手に白化粧した山体のてっぺんが見えた。おそらく富士山だった。


ほんにきれいで、こんなすてきな山を拝めるのになんで今まで気づかんだったんだろうかと自分にあきれた。まあ、生活に日常に安穏にどっぷり浸かってしまっていたから、感度が鈍ってなまってどげえもならんかったんだろう。


とまれ、藤沢に下る道はひたすらまっすぐで、まっすぐで、いやこれが、きつかった。浅草とかの観光地とは違って、基本的に住宅地だったので(当時は)、特段目を見張るものはなかったように記憶する。


幸い、脚に特別重い疲労はなく、午後3時前にはJR藤沢駅に到着したと記憶する。ほどよく落ち着いた街で、住みやすいのではないかと思った。


初日はたしか25㌔ぐらい歩いただろうか。スポーツはからっきしの人間にとっては、よくやったと自分を褒めた。そして、少々自信過剰になった。俺、結構歩けるかもしれん。


2日目は湘南海岸を左手に一路西を目指した。箱根峠の向こうには、昨日出会った富士が見事な円錐姿をさらしている。ああ、あの山にどんどんと近づけるのか、裾野からぐっと見上げることができるのか。旅を始めるまでは考えもしていなかった楽しみに胸が膨らんだ。


と、ここまで楽しいことばかりを書いたが、早速スランプが訪れた。藤沢から西に数㌔進んだところに大きな橋があり、そこを過ぎてまもないところで片足に激痛を覚えた。


日ごろはいている靴がどうも窮屈で、かかとのあたりが炎症を起こしかけていた。


痛みを抑えるため、ややひきずる形で歩くことになり、これが進行ペースを大きく落とした。痛みを感じる箇所と靴との間にティッシュペーパーを丸めたものを挟み、だましだまし進んでいった。


小田原に着いたのはどうだったか、夕方だったろうか。よく覚えていない。1日中、交通量の多い国道を歩いていて、当時はトラックの排ガスもひどかったから、宿で顔を洗ったときにはほおが薄いすすの層でべっちょりしていた。


テレビをつけるとクリスマス番組をやっていた。そうか、世間はイブでうずいているのか。私は彼女もロマンスも何もなかったから、特段の感慨も覚えなかった。まあ正直、寂しさはうずいた。


さて、無理をしてでも旅を完遂したい。いよいよ箱根の峠をえっこらと上っていった。道沿いに、小さな水路が流れていたのを覚えている。透明で、心が文字通りあらわれた。「風祭」という土地があって、その名前と土地の長閑な光景がマッチしてとても素敵に感じたのを覚えている。


箱根の峠には江戸時代の登山道が残っており、そちらをたどってみた。既に関東の喧噪はなく、ふるさと九州と同じ深い緑と精霊を感じさせる静けさがあった。ときどき、私と同じように山道をたどる旅人とすれ違った。ほぼ全員が「こんにちは」と声をかけてくださり、心にしみた。


芦ノ湖に出たのは昼だったか。風が強く、やや荒れていた。富士がより間近に迫っていた。ただ、そのときの私の心境はよく覚えていない。憧れる存在があまりに近いので、どう感じふるまっていいか分からなくなったのかもしれない。


芦ノ湖に近いユースホステルで一泊。温泉が格別に素晴らしかった。硫黄の香りが全身を包む。実家・九州のそれにも負けない。疲れがだいぶ取れた。


最終日。箱根の関所跡を訪ねた。入り鉄砲に出女。現代の税関以上にセキュリティーチェックは厳しかったようだ。

 

えっこらえっこらと下りの道を進んでいく。だんだんと道もひらけ、行き交う人はあいさつすることもなく、視線を互いにあさっての方向へと飛ばすようになる。ああ、また現代に戻ってきたなあ。


三島大社を参拝し、ゴールの沼津を目指す。ここらで道に迷った。持参した地図を調べるが、どうも分からない。ちょうど、通りがかった自転車のおじいちゃんに声を掛けた。


「ああ、あの、若草神社が、見えるらあ?」


おじいちゃんは、道沿いにある鳥居を指さし、そこを右か左に行くとよいと教えてくれた。私はありがとうございますと礼をした。


このとき、頭の中で一つの言葉が何回もリフレインしだした。


「見えるらあ」


らあ、とな。こんな言葉、生まれてこの方聞いたことないぞ。おそらくはここ静岡県東部地方の方言なのだろう。それにしても、申し訳ないが田舎くさいというか間の抜けたというか、なんともいえない語尾だなあ。


それと同時に、私ははっきりと感じた。空間が、変わったんだ。関東圏から、東海圏に。


私は学生としてずっと関東で暮らしていた。言葉は標準語であり、特段の個性はなかった。それが、箱根の峠を上り下りしたところで、明らかな変化を感じた。


空間の広がり、つながりを感じたいと思って始めた旅だが、予想していないところで空間の奥行き、個性というものも嗅ぎ取ることになった。


空間は、どこまでも一つであるが、どうやら区切られている。それぞれにおそらく独自性があり、味わいがある。


面白いと思った。


やや脚を引きづりながらも沼津駅に到着。ここで私は関東に戻らず、そのまま寝台特急富士号に乗り込んで一路九州を目指した。車中にあおる缶ビールは、うまかった。


初めての歩き旅はこのような形で終わった。なんとか完遂できた。感慨が沸き、ノートに記録をしたためた。それは「旅日記」として今に至るまで続けている。


この後、夏休み春休みとさまざまな機会を通じて歩き、聞き、見て、感じた。途中からは経費節約のため野宿を始め、これがまた空間の奥深さを感じさせる(人間世界のちっこさも感じさせる)貴重なツールとなっている。


歩き旅から学んだこと気づいたことは数多い。空間については、まだまだ奥が深く、正体がよく見えず、もどかしさを感じるが、高望みせずのんびりと探検の旅を続けていこうと思っている。

 

~お付き合いくださり、ありがとうございました~