おじさん少年の記

疲れた時代に、癒やしの言葉を。からだはおじさん、こころは少年。

【ショートショート】「倍返し」の世界

 

21☓☓年。時の内閣が一つの法案を提出した。

俗称「倍返し法」

国も会社も地域も、争い諍いが絶えない。

技術が進んでも、人のこころまで進歩するわけではない。それが悲しい現実だ。

弱い者はいつまでたっても弱いまま。ジャイアン、もとい、強者はどこまでものさばっている。

どげんか、しちくんない。

一般ピーポーの言葉にならないルサンチマンを嗅ぎ取ったセンセイたちは、票を掘り起さんとばかりに悪目立ちしそうなアピールに出た。それがこの珍妙な名前の法案というわけだ。

ルールはシンプル。やられたらやり返してOKです。それも2倍でね。

裏切られたり、金をくすねたりされたら、倍でやり返しても罪には問われない。むしろ法で保証された権利であり、行使して何ら問題ない。むしゃくしゃは、すっきり解消だ!

「まああとは皆さん、存分にやってください」

年配の首相は、後のことは知らないよとばかりに短くコメントすると、議場を後にした。

世の中のギスギスが立ち込めていた時期に現れた新法案は、一般ピーポーのハートをつかんだ。国会では侃々諤々の激論が交わされたが、最終的には僅差で賛成多数、可決となった。

「アップ、始めるか」

全国津々浦々で、やられてきた側の人たちが拳をポキポキやり始めた。それも、過去にやられた分まで遡って「恩返し」をしていいときた。うれしくって仕方がないよ。

半年後、法が施行されると同時に、あちこちで弱者の逆襲が始まった。

ある大会社の社長は、パワハラで潰したかつての部下から盛大な返礼を受ける羽目になった。

料亭で芸者遊びをしているところに元部下が現れ、過去の言動を録音したデータをさらされた。それを根拠に、倍返しの儀が始まった。芸者さんは主の席に座り、社長は延々と下手な踊りと手囃子を披露させられた。録画モードのスマホの前で「私は最低最悪のパワハラ上司です」と叫ばされた。動画サイトで始終を視聴した職場連中は「いい気味だ」と高笑いした。

小学校のママ友会でも反乱の狼煙が上がった。どこのグループにも声の大きいボスはいるもので、そういう人物から一度目をつけられるとハブられる。孤立させられる。さあて、攻守は逆転だ。さんざんハブられてきたママさんたちは、つらく苦しかった日々を綴った日記の束を手に、ボスに迫った。「お礼はしっかり返してもらいますよ」

みんながランチを楽しんでいる間、トイレ弁当を強いられた。ああ、みじめ。お花見会のバーベキューでは、一人だけお肉を取るのを許されなかった。うう、お腹すいた。SNSのグループでは、何を書いてもリプライをもらえなかった。もう、懲り懲り。二度とハブったりしないわ。

あらゆるところで、たまりにたまったマグマが噴出していった。実に爽快、実に愉快。さあ、これで世の中すっきり爽快だ。

法の施行から1ヶ月がたち、世の中のギスギスは、残念ながら、解消とはならなかった。

埋もれた怨念の量が、質が、あまりにも膨大すぎ、ガス抜きが済む前に炎上爆発を引き起こしかけていた。

ことここに至ってセンセイ方もピンチに気づいた。慌てて法律を改正しようとした。が、国会に提出したり議論をしたりしたりとそれなりに時間がかかる。どうなってしまうんだろう、この国は。

窮地から人々を救ったのは、不思議なことに、まさしく「倍返し」の発想だった。

「いただいたものは、のしをつけて返す」。やや尖ったようにも見えるマインドセットは、法律という輪郭を与えられたことで、人々のこころに一層深く染み渡った。

そこであらためて気づくこともあった。

返せるものは、恨みだけとは限らなかったのだ。

やさしさだったり、気遣いの一言だったり、いろいろあった。私の人生は少なくない理不尽や心無い一言に囲まれてきたが、その傍らで励ましの笑顔に助けられ、恩師の慈愛にあふれた訓示があった。むしろ、そちらのほうが圧倒的に多かったかもしれない。

恩義を、いただいてきた愛情を、ないがしろにしては、いけない。

最後は、一人一人のルサンチマンと良心との闘いになった。

センセイたちがヒイフウいいながら新法改正案の提出準備を進めているころ、世間では先に変化が起き始めていた。

逆襲しようと思えば、いつでもできる。でも、それをやって、本当にしあわせになれるだろうか。俺が私がやりたかったのは、こんなことだったのか。

国からのお墨付きで与えられた権利を手にしながら、少なくない人々が行使する選択肢から手を引いた。

改正案という名の廃案が成立したころには、世の中は以前の活気を取り戻していた。といっても、もちろん恨みつらみは絶えることがなかったのだが、人々は自らの意思で新たな「倍返し」の時代を生きるようになった。

通勤電車で、赤ちゃんに微笑みかけた年配女性にホッコリした青年は、職場で新人の肩をポンと叩いた。「入社祝いや、昼メシ、おごるでえ」とおどけると、こわばった顔がほぐれるのが分かった。君がホッコリしてくれると、俺も嬉しいよ。

弱肉強食の構図はなかなか変わらない。だからこそ、打算のないホッコリの輪を広げて広げて、みんなで世の中にいっぱいの潤いをもたらしたいものだ。

週末。ある中年サラリーマンが、自宅でビールをグビリとやりながらつぶやいた。

「えげつない倍返しは、ドラマで見るぐらいが、ちょうどいい」