おじさん少年の記

疲れた時代に、癒やしの言葉を。からだはおじさん、こころは少年。

【短編】経済!経済!経済?

首相の串田は鬱々としていた。

 

「最強の決めゼリフだと思ったのだが・・」

 

先日の党首討論で繰り出したフレーズは、期待と裏腹に世間の反発を招いた。「経済!経済!経済!って、そらぞらしいわ。庶民の懐事情も分からん人間がえらそうに」

 

ブレーンたちと練り上げた原稿は、読み直せばそれなりの説得力があったかに思えた。何がいけなかったのか。俺の何が悪いのか。

 

「ええままよ、今日はもうぱあっと飲み散らかしてやらぁ」

 

串田の足は自然にサラリーマンの聖地・新橋へと向かった。何人もの警護が追っかけてきたが、安らぎを求める熟年男の情熱が勝った。霞が関の大通りを汗だくで駆け抜ける背広姿を、一国のリーダーだと気付ける人もいなかった。

 

ガード下のこじんまりとした焼き鳥屋を見つけるや、息を吐いた。「誰がいようが関係ねぇ、たらふく食って、呑んじゃるけん」

 

ガラガラ

 

ありがたいというべきか、カウンターのみの店内は中年サラリーマンが一人、しっぽりやっているだけ。ここなら腰を据えてやれそうだ。

 

「親父さん、おすすめ5本盛りで。あと、生中」

 

誰に気を使うこともなく飯を食えるひとときの、なんと落ち着くことか。キンキンに冷えた黄金色の液体を、グーッと喉奥に流し込む。ハツ、つくねと絶品を放り込む。ガチガチに凝り固まった心もいつしかハラリほどけ、肚の底で淀んでいた思いの数々が口からあふれ出てきた。

 

「俺の何が悪いんだよぅ。俺はただ、この国の景気をよくしたいだけなんだ・・」

 

ゴトリとジョッキをカウンターに置いたところで、隣の中年サラリーマンが口を開いた。

 

「景気よくしたいって?ならまずやることがあるね」

 

串田「むむ、それは!」

 

男「こづかいだよ。こ・づ・か・い。世の中のお父ちゃんの懐具合をちょっとばっかし、あったかくしてあげるんでさぁ」

 

世の中でサラリーマンほど散財芸の美しい人種はいないかもしれない。宵越しの銭は持たない。財布はいつも軽い。言い換えれば、それだけ世の中の金回りに貢献しているということでもある。お父ちゃんたちの軍資金をもう少し手厚くしてあげれば、それだけ世間も活気づくというわけだ。

串田はぼやいた。「そうは言うけどよぅ、小遣いアップなんか法律でつくれねえよぅ」

 

男は熱燗の猪口をグイッとあおった。「法律だとかなんとか、小難しいこと言ってんじゃないよ、おじさん。それになぁ、小遣い上げるってのはそんな単純なことでもないんだ。なんたってなあ、母ちゃんを動かさなきゃいけないんだぞ」

 

男は遠くをみるような目線になった。どうせ誰もできっこしねえんだ。諦観が男の表情を包んだ。

 

家計を支える奥様方のハートを揺さぶってこそ、小遣いのベースアップという僥倖をたぐり寄せることができる。それは難攻不落の城であり、ミッション・インポッシブルでもある。だがそこにトライしてみなければ、潤いあふれる新たな地平は永遠に姿を現さないかもしれない。

 

串田はうなずいた。「たしかに、お宅の言うとおりだ。して、予算はどれくらい必要なんだ」

 

男はしかめっ面をした。「まぁた小難しいこと言いよるなあ、おじさん。『予算』とかなんとか、知らないよ。大切なのはね、ハートだよ。奥様のハートに訴えかけるんでさぁ」

 

物事を前に進めるのに、必ずしもお金が必要とは限らない。法律や予算をみつくろってしまえば万事解決というほど世間は単純でもなさそうだ。ときには丸腰で、しかし真心から何かを訴えかけることで、理解者が増え、世の中に光明をもたらすことができるかもしれない。

 

串田の瞳に、キラリンと一粒の光が灯ったように見えた。「お宅、いいこと言いよった。私はね、ヒントをもらいましたよ。ヒントを。ありがとう。明日から仕事、頑張るよ」

 

「おおょ」と男は答えた。「おじさんも大変だろうけどね、まあ頑張りなさって。それにしても、お宅らの仕事って大変だねぇ」

 

串田は首をかしげた。一国のリーダーに対して随分と慣れなれしいものだ。

 

「だってあんた、あれだろう。ものまね芸人。テレビに出る首相にそっくりだ」

 

あはは、と串田は笑った。「そうそう。売れないものまね芸人ですよ、私は。これからは小難しい言葉ばっかり使わんと、自分のアジを出していきますかなぁ」

 

数日後に開かれた予算委員会で、串田の放ったフレーズの数々が話題をかっさらうことになった。

 

「景気を良くするには、まず足元から。そうです。こづかい。こづかい。こづかい!世の中のお父さんたちに、息抜きのエネルギーを!こづかい、アーップ!奥様方、お願いします!」

 

テレビの速報を通じて、新橋がどよめいた。「おお!何かいいこと言ってくれたぞ!」

 

串田は続けた。「お父さん方が飲みに出れば、居酒屋が潤う。出入りの酒屋さんも息を吹き返す。2軒目のスナックまで行けばママさんもお姉さんも懐があったまる。帰りのタクシー代はちょっとばっかし高くつくかもしれないけど、運転手さんの暮らしも成り立つってなもんです。だから奥様方、どうかご協力を!」

 

サラリーマン連中は叫んだ。「そうだそうだ!俺たちはもっと飲みに出て、いいんだ!いいんだよ!世の中に貢献してるんだぁ」

 

手元の原稿に視線を落とさず、あふれる目力(めじから)で聴衆に訴えかける串田の姿に、大人も子供も何か動かされるものがあった。

 

ただ、お茶の間ではやや冷ややかな空気が漂った。「なんだかんだいって、結局得するのはお父さんだけじゃない」

 

世の奥様方が握る財布のひもというのは、そう簡単に緩んでくれるものでもなかった。

 

串田はそんな女性陣の心中を察したかのように、続けた。

 

「そうです。ただお父さんたちだけが嬉しい思いをするだけじゃあ、もったいない。潤いはもっと広く行き渡らせるべきなのであります」

 

視聴率マックスのテレビ画面越しに、串田は「第2の矢」ともいうべきフレーズを放った。

 

「お父さん方、まずはプレゼント。プレゼント、プレゼント、プレゼント!お世話になっているあの方に、アップしたお小遣いで贈り物をしようではありませんか!」

 

贈る相手はほかでもない、添い遂げるパートナーのことだ。愛する妻に、感謝の気持ちを。言葉だけでなく、形を添えて。それでこそ家庭内平和が実現し、運気もお金回りも好転していくのだ。

 

今度は奥様方がよじれ声を上げた。「あらまぁ、それなら話は違うってことよ。お小遣い上げてあげましょかね。まあ、当然プレゼントは『倍返し』ってとこかしら」

 

とたんに新橋の騒擾が静まり返った。「おいおい、それじゃあ俺たちの軍資金が逆に減っちまうじゃねえかよぉ」

 

男性陣からの支持を一瞬で失ったかのようにみえたが、串田は動じなかった。テレビ画面越しに、串田は最後のセリフを吐いた。「まあ世の殿方、みていてください。ちょっとしたら様子が変わってきますから」

 

状況は果たして串田の予言したとおりに動いた。串田が呼びかけたその月、少なくない家庭で奥様方がうん年ぶりに小遣いを上げた。殿方は無言のプレッシャーに涙をホロホロと流しつつ、愛妻恐妻に花束を贈った。感謝の言葉を手紙にしたためた。ある殿方は手袋を、マフラーを、腰痛に効く電動マッサージ器を贈った。奥方のハートに潤いが満ちた。

 

潤いは慈悲となった。「お父さんも会社で頑張ってるしね。もうちょっと飲みに出ても、いいのよ。プレゼントも、毎月だと大変よね」

 

殿方は狂喜した。妻公認で、堂々と、新橋のネオン街に繰り出せるのだ。もちろん限度はわきまえつつ、楽しく飲み、語らい、英気を養った。そして忘れることなく、折々に妻に感謝の気持ちを形で伝えた。

 

世の中の金回りが良くなっていった。税収も少しずつ増えていった。増税することも法律をつくることもなく、ある程度景気を上向かせることに成功した。

 

「大切なのは、法律や予算をつくることばかりじゃない。真心を伝えることなんだ」

 

助言してくれた、見知らぬ中年サラリーマンへの感謝の気持ちをかみしめているころ、出会いの場となった場末の居酒屋では当人が素っ頓狂な声をあげていた。

 

「あのおじさん、『本物』だったんかぃ」

 

串田第2の矢「プレゼント、プレゼント、プレゼント!」も、その後の展開も、実は男が呑んだ勢いでぶちまけた妄想だった。「俺の脚本、全部パクりやがって・・。やるな、おじさん!」

 

実は自身が売れない芸人の男は、意外なところでバズった己のセンスにほくそ笑むのであった。