おじさん少年の記

疲れた時代に、癒やしの言葉を。からだはおじさん、こころは少年。

【小説】無限地下ホテル・3

客室の壁が南国の浜辺を映し出すB1360フロアを後にすると、私は再びエレベーターに乗り込んだ。

下降するほど、奴らと相まみえる可能性が高まる。なにしろ奴らは私とは反対に無限の地下層から上がってきているからだ。

これ以上降りなければ、私は気の済むまで南国の浜辺を楽しむことができた。心に馳走を思い浮かべるだけでそれらは足元に現れ、屠りあおることができた。

なのに、私はそこで多とすることができなかった。心の内にひそむ無防備な好奇心とマゾヒスティックな本性をかきたてられ、下へ下へと強い意志をもって向かっていった。

エレベーターの階層表示版は、ついに電光表示することをやめた。地下1360階だろうが1万階だろうが、深いということに変わりはなく、乗客に伝えることにさして意味はないだろうと判断したかのようだった。

それもそうだ。そもそも、表示をやめたこと自体が私自身の心の内を代弁したにすぎないようにも思えた。

グウーンと無機質な振動音だけを身体に伝え、エレベーターはしばらく無限の闇への旅を続けた。

もうそろそろいいかと思ったところで、意を汲み取ったかのようにエレベーターは停止した。そして毎回のごとく静かにドアは開き、私はフロアへと足を踏み出した。

濃いオレンジ色の照明灯は瞳の奥を少しばかり強く刺激した。ただそれは痛みを呼び起こすものではなく、むしろ幾ばくかの興奮をもたらした。

あらかじめ予定されていたかのように、とあるドアの前で自然と足が止まった。そしてこれまでと同じように、それほど躊躇することなくドアノブをひねった。

暗闇だけが広がっていた。

部屋の広さ、間取り、そういったものはほとんどわからなかった。ただ、通路側の照明のオレンジ色が差し込んだ部分だけ、フローリングと壁の一部だけが、そこが客室であることを伝えてくれた。

暗闇には魑魅魍魎の存在が似合う。おそらくここで私は件の怪物と遭遇し、人生の最期を迎える瞬間にふさわしい厳粛な心持ちに浸る猶予も与えられずパクリとやられてしまうのだろう。

ええままよ、どうとでもなれ。私は小心者の性分から生まれて初めて解き放たれたかのようにかえって落ち着き、堂々と闇の奥へと歩を進めた。

意外にも、何者の気配も感じることなく、20畳ほどの室内をぐるりと巡り終えた。

ただの黒だと思っていた空間だが、瞳を凝らすと、あちこちに存在を伝えるものがあった。

塩一粒よりも小さい白の群れが、向こうの向こうの向こうに漂っていた。

これはおそらく漆黒に浮かぶ遥か遠方の星々だろう、と私は直感した。21世紀の今でも、少し都会を離れ海辺で夜空を見上げてみれば、乳の流れる川と例えられる恒星群を認めることができる。

粒の一つ一つは、何らのメッセージも発することなく、ただかすかに光という力を放っていた。存在するということだけを周囲に示していた。そこには意味も価値も歓喜も悲観もないように感じられた。

あるものがあるという、ただそれだけの広がりに、私はなぜか心落ち着いた。特段の食欲も沸かず、時間を忘れてぼうと立ち尽くした。

音もなく、息を吸い、吐いた。

隠遁者と呼ばれた人たちは、このような空間で、あるいはこのような心境で生を全うしたのだろうか。それはある種の「悟り」と呼べるものだったのだろうか。

いろいろと思索がうごめきだし、私は「次に行こう」とつぶやいた。

私は人間としてたいして成長していないし、悟りとも縁遠い存在だ。ここの闇はどこか神秘すぎて少々居心地が悪かった。私にはもったいないように感じられた。

ドアを明け、再び強いオレンジ色の照らす通路へと出た。心身に興奮が蘇った。友人を待たせていたかのように、私は半ば相棒となったエレベーターの下へ足早に向かった。