おじさん少年の記

疲れた時代に、癒やしの言葉を。からだはおじさん、こころは少年。

【手記】無限地下ホテル

やけに現実感があった。

 

私は妙な興奮とともに目を覚まし、まだあの空間に身をおいているかのような気分の高まりとともにあった。

 

地中に向かってどこまでも続いているのであろう、穴を私は見下ろしていた。

 

きれいにくり抜いたであろう円柱状の空洞に面して、幾何学的に、四角い縁が階層状に並んでいた。その一つ一つは、ドアであった。

 

「ここは地上1階・地下無限のホテルなんです」

 

テルマンが私にささやいたような記憶がある。

 

地上では円柱の空洞に沿って手すりが続いており、高所恐怖症の私は恐る恐る下をのぞいてみた。

 

無音であり、漆黒であった。

 

底がないと。そんなことがあるか。試しに、硬貨を1枚、放ってみた。

 

いつまでたっても、重力という物理法則を実証する地面との衝撃音を聞くことはできなかった。

 

このホテルでは、いや、この無限空間では、数え切れない旅人たちが思い思いに宿泊を楽しんでいるという。いったい、いつから営業しているのか。さまざま疑問をホテルマンに寄せたが、人間として限られた寿命を生きるばかりのホテルマンは、確かな答えを持ち合わせていないようだった。

 

自分も知らない昔から、このホテルはあったという。際限のない地中空間に向かって、客室は続いている。旅人には、一度受付で対峙してからは再びまみえることがない。そんな素性の判然としない施設で働くことに疑問は抱かないのか、私はホテルマンに尋ねてみたが、「職さえあればそんなことどうでもいい」といったような投げやりな答えではぐらかされたような気がする。

 

「それで、宿泊はどうされますか」

 

催促された。それは強い調子ではなかった。が、私の冒険心を試すような挑発の色がにじんでいた。

 

料金は、説明を受けたがよく覚えていない。はっきりしているのは、「下の階にいくほど部屋のしつらえもサービスもゴージャスになる」ということだけだ。

 

プラスチックのプレートによそわれたパサパサのパスタが、金銀の食器で彩られたフレンチとなり、チープな缶ビールが、シャンパングラスに取って代わる。安アパートに鎮座していそうな小型のテレビが、プロジェクターで映し出す大型スクリーンとなり、さらには21籍の技術がまだ実現できていない立体映像に進化する。

 

それだけではない、深く沈むほどに私達の知らない世界へと同通し始め、過去未来、魑魅魍魎の暮らす空間、もはやそこに身を置いた本人しか確かめることのできない複数空間を併行体験することができるのだという。

 

理解を超えた仕組みに気が遠のく思いもしたが、理性を興味が上回った。とにかく、この世界を体験してみることにするか。私は一歩を踏み出した。

 

「じゃ、地下3階で」

 

テルマンが、ぷっと吹きかけた。なんと怖がりな。必死に笑いをこらえようとする仕草が、私に対する嘲りの心情を漏らすことなく伝えた。

 

馬鹿にするなら、するがいい。私は臆病だ。

 

とまれ、手続きはその一言で済んだ。ホテルに一つしかないエレベーターに乗り、下り始めたかと思うと、「B3」と表示されたところで勝手に止まった。

 

どのルーム、とも聞いていなかったが、フロアに着くと、両の脚が勝手に動き出し、あるドアの前で止まった。ここなのだな、と私は疑うことなく思った。安っぽいステンレスのドアノブをひねった。

 

なんともまあ、ありふれたビジネスホテルのような空間が窮屈そうによどんでいた。

 

私は、正直、がっくりした。おそらく、まばたきを何回もしないうちに、「もっと下へいこう」と心を決めた。決めたら、空間は勝手に私の心中を察したようだった。ドアを開け、再びエレベーターに乗ると、グウンと妙な機械振動をきしませながら沈降していった。私の恐怖心が徐々に高まり、限界に達したとみえる「B15」のところでガタンと止まった。

 

再び、何を考えるともなく脚を運び、空間から示されたドアノブをひねった。

 

圧倒的にリッチな空間が広がっていた。純白でいかにもフカフカのソファが、いかにも主を待ちかねているかのようにたたずむ。古今東西の、酒という酒が棚を飾っている。壁面の一つが完全に自然風景と化しており、どこまでが映像でどこからが現実かも分からないほどだ。

 

私は非常に満足した。腹が減ったと思うと、頼んでもいないのに鶏の丸焼きが出た。ムシャムシャと頬張ると、すこぶる幸せな心持ちになった。優しく打ち寄せる波の音を、壁面の白砂青松とともに楽しんだ。

 

これでも、B15なのか。

 

まだまだ人間の頭で想像できる範囲の数字であり、世界だ。ここから先、いや下には、どんな光景が広がっているのだろう。ここでもやはり、興味が私の他のすべての感情や理性的判断を上回った。

 

再び、ドアを開け、見慣れたエレベーターに身を預けた。エレベーターは、私の深層心理そのものであるかのように、ものを言うこともなく再び無限の深淵に向かって沈降を始めた。

 

そのときだった。私の心の中で、誰からというわけでもないのに、この不思議な地下空間についての理解が深まり始めたのだ。

 

どうも、この無限ホテルには、楽しみと引き換えともいえるような代償があるらしい。

 

果てのない闇の空間から、姿も心根も判然としない存在物が、私たちとは反対に「上がって」きているのだという。

 

それは意志を持っており、食欲があり、私たちのような生き物を好物にしているという。私たちが地下に進むということは、それだけ彼ら魑魅魍魎に近づくということであった。運が悪ければホテルの一室で見えてしまい、そうなれば畢竟彼らのご馳走となってしまうわけだ。

 

一体、彼らはどんな姿格好をしているのか。私たちを、どんなふうにして喰らうのか。そんな場面を想像するだけで、震えが沸き起こってきた。

 

それでも、悲しいかな、やはり興味がその他の感情理性に打ち勝ってしまったのである。

 

私は、背中から額からもはや遠慮することもなくしたたりだした汗を拭うこともなく、「もっと下へ」と念じた。エレベーターは、地上のホテルマンがぷっと吹いたときと同じように、カタンと全身を震わせると、再び沈潜への行程を進みはじめた。

 

私はいつか正体のしれない魑魅魍魎と相まみえ、あっけなく生を奪われてしまうことになるのかもしれない。ただ、わかっていながらやめられないのが生き物というものなのだろうか。

 

その後については、綴るかどうか迷っている。というのも、地下への道程は、そのまま私の興味関心の程度を試す旅であり、自らの限界を世間にさらすことにもなるからだ。今はただ、想像上の産物というには現実感がありすぎ、かつ深みのある世界が広がっているということを報告するにとどめたい。