おじさん少年の記

いつまでも少年ではない。老いもしない。

脱・独我論考

学生のときから妙な考えに苦しめられてきた

 

一言でいうと「独我論」だ

 

世の中で唯一間違いない真実とは、「考える私」しかないという思想である

 

手に取るカップ、遠目に映る白雲など、あらゆるものは

 

ただ私が眼で受け止めているだけの感覚であり、瞳の向こうにそういったものものが本当に存在しているかどうかは分からない

 

中学生のころからこうした感覚に薄ら薄ら気づき、なんだか分からないため意識の向こうに放りやっていたが

 

大学に入り、専攻を選ぶ段階で哲学に決め、いろいろと先人の書いたものをめくっていくうちに上記のワードにたどり着いた

 

ああ、これだ

 

私が少年時代から何となく抱いてきたフワフワ感は、言葉を与えるとこの表現になるのか

 

膝を叩きたくなる興奮とともに、救いがたい恐怖に包まれた

 

結局、独我論を打ち破る理論は見つかっていないようだ

 

少なくとも、私がこの奇妙な世界観から自らを解放する論理の道筋は見つけることができなかった

 

そのまま大学を卒業し、就職し、家庭を持ち、今に至る

 

世間の高い圧力の中でなんとか生きのび、上記概念に悩まされる心的余裕すらなくなっているのが現状だが、それでも折々に、私のこころが少し余裕を持ち合わせたときなどに、予告なく顔をひょっこり出す

 

そしてまた私は苦しめられる

 

これが続いて20年。もう死ぬまでこの妙な感覚と付き合わなければならないのだろうと半ば諦めていたが

 

最近になり、どうも解決の糸口を見出したように感じる

 

独我論は、突き詰めれば感覚の世界であり、論理とは別の問題である

 

感覚に論理を与えるのは、鬼に金棒を与えるようなものだ

 

論理は自ら勝手に理論武装をするため、それを打破しようとすればするほど論理のくさびに絡めとられる

 

論理という武器を渡してはならないのだ

 

感覚は生命の持った一つの生きた現実であり、そこに良いも悪いも、正しいも正しくもない

 

そういえば私の折々に抱くこの感覚自体は、特段不快というわけでもない

 

論理を与えたときだけ、それは凶暴化し、私を恐怖とdepressionの世界に引きずり込む

 

これに気付いたきっかけはなんだったのか、今ではよく覚えていない

 

それは今からほんの1か月か、それくらい前のことだった

 

それから、私はこの感覚が肚の底から沸き上がってくるたびに、論理を与えず傍観するようにしている

 

感覚の暴走を食い止めるのは論理ではなく、感覚である

 

感覚がdownhillにあるときは、それに勢いを与えるのではなく、反対の力を加える

 

upbeatになるよう、空を見上げたり、酒をすすったり、阿呆なことを考えたり口走ったりする

 

すると大分に心持がよくなり、感覚は気付くと輪郭を失っている、私は楽になる

 

こんなことに気付くのになぜ20年近くもかかってしまったのか分からないが

 

ただ同じような感覚に苦しめられている御仁がいるかもしれないと思い、何かの参考になればと思いここに記す