おじさん少年の記

疲れた時代に、癒やしの言葉を。からだはおじさん、こころは少年。

【SF短編】こころめがね

23××年××月××日 快晴

 

手記を綴りだしてからもう何年になるだろう。人生も折り返し点を過ぎると、何やら自らの足跡を残したくなるようだ。

 

それにしても、市場にあの商品が登場してから、世の中は一気に変わったと感じる。私の半生も、そしておそらく地球上のあらゆる人たちの暮らしも。

 

変わった、と今書いたが、正確にいうと「止まった」ということなのかもしれない。

 

文明は発展を続けてきた。技術の飛躍はめざましく、その歩みはこれからも足を止めることはないだろう。ただ、私がいいたいのは科学の話ではない。うまい表現が思いつかないが、あえていうなら「進歩」とでもしておこうか。

 

「こころめがね」

 

人のこころの声を文字化し、グラスに映すことができる装置が登場した。とあるIT大手が開発したものだ。満を持して発表した記者会見会場の、報道陣の多さに大ヒットを予感したものだ。

 

争いやだまし合いの絶えない世界だけに、「相手の肚を探れる優れもの」と飛ぶように売れていった。恥ずかしいことを明かすようだが、ご多分に漏れず私も大枚をはたいて購入した一人である。

 

私のことはさておき、これがどうして進歩の終了をもたらしたのか、その経緯を記録しておきたい。

 

こころめがねは、諍いのある場所でとりわけ浸透した。近くをみれば夫婦げんかの場であり、広くみわたせば地球上のあらゆる紛争に普及していった。

 

信頼関係のない、あるいは崩れてしまった相手は、もはや何を考えているか見当も付かない脅威に映る。自分をおびやかす存在が、腹の底で何を思っているのか。そこはどうしても知りたいところだろう。

 

ということで、メガネを掛けて向き合う光景が各地でみられるようになったのだが、結果はあっけないものだった。

 

諍いが、消えてしまったのである。

 

理由は意外に思えるほど単純だ。「相手にも言い分がある」という現実に皆が気づいてしまったのだ。

 

諍いが起きる背景には、相手が間違っているという思いがある。それにはそれなりの理屈があるだろう。私も夫婦げんかをするときはたびたびそのような思いに駆られる。ただ、もし、相手の心のひだまで読み取ることができたなら、「ああそうか」「この人にも理屈がある」と納得し、自ら進んで矛を収めることになるかもしれない。

 

疑念が渦巻く紛争現場では、なおさらのことメガネが真価を発揮した。ただ怒り、狂い、復讐心に燃えていたばかりの集団が、拳を解いて相手に握手を求めるようになった。

 

世の中に初めて、文字通りの平安が訪れた。

 

それは幸せな出来事だったが、世の中から活力というものを失わせていった。誤解も対立もなく、平々凡々と流れる社会は、どこか味気ない。歴史の営みが、一つの頂に達してしまったようだった。

 

これ以上、登る坂道はない。

 

今、私はその「終わった」世界を生きている。もちろん人々は笑顔であり、世の中は和やかだが、正直にいって、物足りない。

 

これは私の残りの人生にとって大きな分かれ目になるかもしれないが、先日、メガネを手放した。

 

人間誰にも言い分があるという事実が分かった以上、もはやツールに頼る必要がなくなったということもあるが、それよりも大きな理由は、メガネを掛けるたびに己の未熟さを思い知らされたという点にある。

 

機械に頼らないといけないほど、自分は配慮の及ばない人間なのか。これは心を宿す生き物として小さくない屈辱だ。そんな思いをするくらいなら、いっそのこと元の不便な生活に戻ったほうがましだと思った。

 

相手の心が読めない世界は、何かと不自由で面倒なことも多いが、それだからこそ人を慮る力を養うことができる。優しさを培うことができる。精神的な成長を実感できることは、この上ない喜びなのだと今になって感じる。

 

周囲でも、私のような「脱メガネ組」をちらほら見かけるようになった。どの顔も、補助輪を外した自転車をこぐ少女のようなぎこちなさと緊張感が漂うが、それだけに生き生きとしている。私はその人たちに、心の中でエールを送っている。

 

世の中にはどうして言葉があるのだろう。表情があるのだろう。四肢があるのだろう。どれも、心の内を誰かに伝えるためではないだろうか。せっかく与えられたものを生かさない手はない。簡単には解き明かせないかもしれないが、奥行きも味わいもある人の心とじかにつながるための旅を続けたいものだ。

 

人生も後半戦だ。「止まった」時代に別れを告げ、不器用でもみずみずしさのある「進歩」の道を再び歩みたいと思っている。