おじさん少年の記

疲れた時代に、癒やしの言葉を。からだはおじさん、こころは少年。

【短編】目覚め

前触れなく、そのときは訪れた。自らを遠巻きに囲む者たちの関心を、肌がヒリヒリするほどに感じた。

黒く、こんもりと盛り上がった自らの肉体に、柵の向こうから多くのジャンパーが白い顔を向けている。ああ、今、「見られて」いる。

これまで、ただ吸い、吐き、食べ、寝て暮らしてきた。何の迷いも疑いもなかった。それが、ひとたび自らならざる者の視線に気づいたとき、もうそれまでのように安穏無心にはやっていけないだろうことを、おぼろげながら感じた。

「かわいいね」

柵の向こう側で、お嬢ちゃんが傍らの父親につぶやいた。「そうだね。でもさ、ゴリラさんって、すんごい力持ちなんだよ」

こちらに視線を向ける2人組に、これまでになかった恥じらいのようなものを感じた。見られるという感覚が、自らから自由を奪い、動きの一つ一つをぎくしゃくとさせた。

自らと、自らならざる者。その違いに気づくのが自覚であり、文明の世界への一歩となった。

図らずも人間の世界に足を踏み入れた今、柵の向こうから呼ばれる「サクラ」という名がこの肉体を示すことを理解するのは実にたやすかった。

一度目覚めると、目にするあらゆるモノや出来事が秩序によって整えられていることに気づき、おののいた。

日が昇る。茶色い服が、朝の餌を与えにやってくる。しばらくすると、何かもごもごした大きな声が聞こえる。開場だ。朗らかな表情のジャンパーや帽子がやってくる。こちらに指を差してニコニコしてもらえるのは、なんとも気分がいい。やがて日が暮れる。再び茶色い服が餌を与えに訪れる。ジャンパーも帽子もいつしか夕やみに溶けて消える。茶色い服が、ガチャリと柵に細工をし、そこからは静けさだけの世界だ。

「時間」という概念を理解した。そのときそのときに起きる出来事を、興味関心の目でとらえ直していく中で、ルーチン、役割といった文明社会の骨組みをスルルと吸い込んでいった。

自らのいる世界は、これほどまでに奥行のある世界だったのか。

サクラは認識が一段階上がったことを実感し、文明の一員となったことの優越をかみしめた。もはや「見られる」だけの存在ではなかった。自覚した者として、世の中をしっかりと見回し分析し、理解していた。

自らの覚醒に気づいた者は、誰もいなかった。茶色い服は相も変わらず淡々と餌を与えつづけ、同じ柵の内の仲間たちは、何を感じるふうでもなく野性のまどろみに安穏としていた。

どう、出るか。

サクラは、迷った。さらに一歩、文明世界の奥に踏み込んでみたかった。ここで、茶色い服に何らかのアプローチをしたらどうなるだろう。きっと自分は大きな注目を浴びることになるに違いない。そして、なにがしかのチェックを受けるのだろう。ただ、そのあとは、どうなるか。全く分からない。それでも、自分を自分として見てくれるようになることは間違いない。進むか、とどまるか。

決心を下せぬまま、日が過ぎ、季節が移ろった。

煩悶を抱えながら自覚した日々を重ねるうちに、サクラの中でまた新たな心境の変化が起こった。それは必ずしもありがたい変化とはいえなかった。

文明社会のルーチンは、見方を変えると束縛であった。茶色い服やジャンパーは、それぞれの役割を担っているようにみえたが、どこか硬直していた。秩序や分析は、世の中に安寧をもたらしている代わりに、意味の世界に縛り付け、本来持つみずみずしさを損なわせていた。少なくともサクラには、そうみえた。

決めた。これ以上は進まないと。それだけではなかった。せっかく足を踏み入れた文明の玄関口から、引き下がることにしたのだ。

文明は、見た。その奥行もうかがい知った。でも、いい。何か、大切なことがあったはずだ。

自覚する前、サクラには束縛や硬直とは無縁であった。時間も定義もなく、ただ匂いがあり、味があり、落ち着きがあった。自らもなく、相手もなく、柵もなければ境界もなかった。あらゆるものと意識せずゆるやかにつながっていた。文明が犠牲にしたかもしれないものを、豊かに持ち合わせていた。

文明に、人類にひたと近づくことができた絶好のチャンスを、自らの意志で手放した。その判断は「退行」と呼べるものだったか。それは分からない。ただ、立ち止まることなく文明と呼ばれる自覚と分析の流れに身を任せていくことは、「進化」とはいえないだろう。

野性のまどろみの世界に戻ったサクラは、再び生の力を発現するかのように見事なドラミングを披露するようになった。柵を挟んで向かい合っていた親子連れは、どこかありがたく懐かしいものを眺めるかのように目を細めた。