人助けのヒーローからマンツーレッスンを受け、「カラオケで若い子たちにもてたい」という恥ずかしい願望の実現に一歩近づいたアラフィフの男・弘(ひろし)。
決して華やかとはいえないが、それなりに光るカラオケ人生が、始まった。
職場の歓迎会、暑気払い、忘年会。宴の場があるたびに、弘はさりげなくマイクを握った。
見栄えを追わない。喉もふるわせない。そもそも、音色に、こだわらない。太く短く、心の声を言葉に乗せるスタイルで、淡々と、歌っていった。
嫌味なく、押しつけがましくなく。ときに内省的と見えるほどに歌心を発する弘の姿は、少しずつだが職場の注目を集めるようになった。
「弘さん、歌っているのか歌ってないのか分からないけど、なんか残る」
「どっちかというと、声を出してない『間』のほうがしびれるわ」
かつて憧れた、若い子からの憧憬の眼差しを、思い描いていたのとは違った形で、浴びることになった。そもそも、歌ってない瞬間のほうがいいだなんて、褒めてるんだか、けなしてるんだか。分からないよ。
それでも、いいんだ。俺は今、幸せだ。
高みを求める求道心は、やがて究極のスタイルにたどり着いた。
前奏が始まる辞典で、弘はあっさりとマイクを誰かに引き渡すようになった。自らは、「山河」の世界にじっと染まった。誰かが歌う、そのそばで、黙って拳を握った。瞼を閉じ、じっと余韻の世界に浸った。
職場の仲間からは、「歌わずして感動させる男」「沈黙のヒロシ」と呼ばれるようになった。
部下にせがまれ、一度だけ、再びマイクを握ったことがある。ただ、そのときは最後まで一言も言葉を発さなかった。まぶたを閉じ、ひたすら拳を振るった。それでも、カラオケマシーンは「69点」をたたき出した。
マシーンが適当だったのか。はたまた、弘の醸し出す余韻がマシーンを揺り動かしたのか。それは定かではない。だが、その独特で毅然とした姿は、周囲の一目置くところとなったのである。
「このスタイルでやっていこう」
若い子の好きなポップソングはあきらめた。
望みを捨てたところで、新たな魅力を手に入れた。
今回も人助けをしっかと果たしたざんねんマン、人づてに耳にした弘の人気にあやからんと、秘儀「無言カラオケ」を極めんとばかりに一人、カラオケにいそしむのであった。
完
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