おじさん少年の記

疲れた時代に、癒やしの言葉を。からだはおじさん、こころは少年。

【ざんねんマンと行く】 年神様もたまにはたそがれる

年々、わしの出番も少なくなりよるのう。

 

東洋の島国の人々が昔から信じてきた存在、年神(としがみ)様は少し寂しげにつぶやいた。

 

一年がまさに始まらんとするときに地上に降り立ち、それぞれの家々を訪ね、幸をふりまいてきた。姿形は見えずとも、神聖なる存在を感じ、敬う人々は実に多く、それはそれは丁重にもてなされてきた。

 

だが、現代に至り、特に21世紀に入ると、その慣習はあれよという間に姿を消そうとしている。科学技術の進歩がそうさせるのか、それは分からない。少なくともいえるのは、年神様が家々を訪ねる際の目印である門松を飾る家も今ではほとんどないということだ。玄関に門松を、屋内には鏡餅を飾り、年神様をもてなそうという人々は、現代ではもはや少数派になろうとしている。

 

わしのような古くさい存在は、もはやお呼びでないのかのう。誰かこの悩み、聞いてくれんもんかのう。

 

神様のささやかな願いを、島国で一人暮らしをしている男がしっかと受け止めた。人助けのヒーロー・ざんねんマン。神様をお助けするのは初めてだが、果たして役目を果たせるか。

 

黄泉(よみ)の国にいる年神様と、早速テレパシーでつながった。オンラインのチャットに似ている。相手は神様だけど、結構身近に感じるぞ。

 

そうですかあ、最近お呼ばれする先が減っていると。なるほど。それはちょっと、寂しいですねえ。

 

ざんねんマン、ひたすら耳を傾けるが、妙案が出てこない。人の好い年神様、「いいのじゃ、いいのじゃ。話を聞いてくれただけで充分嬉しいぞよ。ありがとうのう」と愛情たっぷりの言葉でヒーローをねぎらう。それはそうと、今のご時世に神様じゃとか、心を洗い清めるじゃとかいったことを信じる者は、いなくなってしまったのかのう。おぬしは、どう考えるか。

 

「わ、わたしですか?」

 

ざんねんマン、ここ数年の行動を振り返ってみた。たしかに僕も、住んでいるアパートで門松や鏡餅を飾ったりはしていない。でも、年末年始はなぜか分からないけど自分の心が澄みあらたまるような気がする。最近の若い子たちもそうなんじゃないかと思う。スマホのSNSを見たら、「あけおめ!」「ことよろ!」とおめでたいメッセージばかりだ。形こそ変わっても、一年の始まりをみんなで尊び、心を洗い清めるという点では今も昔も変わらない。年神様は、決してお呼ばれされなくなったのではない。慣習が形を変えただけなのだ。

 

「そうか、わしはまだお役に立てるのか」

 

年神様の言葉に力がみなぎった。わしも、時代に合わせて変わっていけばよいということか。

 

よし、まずは門松へのこだわりを捨てよう。鏡餅も、ほしいけど、なけりゃないで構わん。わしは、年の始まりを祝いたい者の家ならどこへでも参るぞ。一緒に新年のお笑い番組を見て、みなと笑うて、幸を振りまくぞ。SNSで「ことよろ」投稿をした者に、心の中で「いいね!」ボタンを連打するぞ。

 

この際、神様神様した格好からもおさらばしよう。

 

えいやっ

 

天を貫かんばかりの気合とともに、年神様は姿を一瞬、消した。再び現れたとき、白髪の老人は紅顔の美少年に変わっていた。それはまるで、世界中の若い衆を熱狂させる、Kポップシンガーのようであった。

 

ひらめきのきっかけをくれたざんねんマンに、年神様はお礼とばかりに姿を現した。イメージからかけ離れた格好に、ざんねんマンは一瞬言葉を失った。が、嬉しそうに“家庭訪問”の身支度を始める年神様に、「似合ってますよ」と盛り気味の賛辞を贈らずにいられなかった。

 

ざんねんマン、今回こそ本当にたいした仕事をしなかった。ほぼ年神様の独壇場となった。「こういう回もありますけん」とつぶやくのみであった。

 

年の暮れは、年神様の一大仕事が始まるタイミングでもある。世の中の弥栄(いやさか)を祈るすべての家庭に足を運ばれ、幸をもたらしてくれることだろう。

 

世界中の人々にとって、この年がよき1年となりますことを。ともに幸せを祈りましょう。