おじさん少年の記

いつまでも少年ではない。老いもしない。

通訳案内士

通訳案内士という観光関係の語学資格を目指して勉強している

合格するためには日本の文化、地理、歴史に詳しくなくてはいけない

ということで年中行事や由来を今せっせこと学び直しているのだが、あらためてその意味を知り「へえ」と驚くことが多い

重陽節句(9月9日)には菊を使った食や飾りをするが、それは菊に邪気を払う力があると信じられているからだという

正月には各家庭の玄関に門松が飾られるが、これは年神様に家庭訪問していただくための目印(依り代)として置くのだそうだ

よく知らんかった

さて、そこであらためて思った

こうした由来、いわれをよく理解している人はほとんどいないのではないか

誰も彼も、よく知らないまま執り行われてきたのではなかろうか

それこそ数十年、数百年、中には数千年にわたって

そうした催し、儀式にはどれほどの意味があるのだろうか、ひょっとしてたいした意味はないのではないか

そんな考えが頭をもたげてきて、なんだか世の中の儀式という儀式が空しいことのようにちょっぴり思えてきた

ただ、学びを進めるにつれて少し違った感想も沸くようになってきた

いわれも由来もよく知らないながらも、人は伝統の行事を執り行い、何かを祈っている

無病息災、家内安全、五穀豊穣

そこに特別な知識も理解も説明も必要ない

純粋に何かを祈る、透き通ったこころさえあれば、充分すばらしいのではないか

神事の少なからぬ部分に、根拠の不明な迷信が紛れ込んでいるようにみえる、しかしそれでよいではないか

毎年、11月15日には着飾った幼な子を連れて参拝する、千歳飴をなめて無病息災を祈る

その光景は親族ならずとも眺めていて微笑ましい

年中行事、風習の由来を学ぶことに意味はそれほどないかもしれない、ただ一つ一つの光景に対して、今までに増していとしい心持ちで接することができるかとは思う

こうしたいとおしさを外国人観光客の皆様とシェアできたら、日本の地方で暮らす者として望外のよろこびだ