おじさん少年の記

疲れた時代に、癒やしの言葉を。からだはおじさん、こころは少年。

【ざんねんマンと行く】 第30話・SNSで孤独をつぶやく少女に面する~

「私はひとり」

短い言葉が、やけに気に掛かった。

国際交流を目的にした、とあるSNS上の投稿だ。一つのメッセージは、続々とアップされる無数の投稿の下に埋もれてゆく。日記、エッセイなど多彩な文体がタイムラインを彩る中、わずか一文で終わる投稿は少なく、目立たない。ただその言葉には、投稿者の深い憂いを感じさせる何かがあった。

目をとめたのは、人助けのヒーロー・ざんねんマン。最近では活躍の場を広げようとネット上のパトロール(ネットサーフィンではない)をしている。

文面から察するに、どうも投稿者は寂しいようだ。気になるなあ。元気になってほしいなあ。

純粋というか、単純というか、人は悪くないざんねんマン、それほどためらうこともなく投稿者に「こんにちは」とメッセージを送った。変な人だと思われると嫌だなあ、もう少し書いてみよう。「2022年になりましたね、お互い良い1年になるといいですね」

素朴さが通じたか、ややあって返信がきた。「こんにちは。メッセージありがとう」

やった。相手さんは元気そうだ。雑談で相手さんの気晴らしになったらいいなあ。「いやー寒くなりましたね、風邪ひかないようにしましょうね」

「お気遣いありがとう」

リラックスしてくれたかな。話すネタを考えていると、再びメッセージが届いた。「どちらの方ですか?」

私ですか。私は東京に住んでおります。もともとは九州の出身なんですが、成人してからはこっちが長いですね。

「差し支えなければ、どんなお仕事をされているんですか?」

ここで、ざんねんマンの虚栄心がくすぐられた。わ、わたしですか。え、エッヘン。私はその、「人助けのヒーロー」です。

・・・・

「そのジョーク、素敵」

ネタ扱いされてしまった。ちょっと肩を落とすが、考え直すとそりゃあ当然だ。どこの世界に「僕はヒーローです」なんて自己紹介する奴がいるか。それにこの際、僕のことなんてどうでもいい。この投稿者さんが、元気になってくれたらいいんだ。

「いやー僕も、仕事は大変、生活はかつかつですよ。休日はひたすら自宅で一人、ネット番組見てますよ~」

軽いノリが会話に弾みをつけた。「私も仕事が忙しくて。一人で過ごすことが多いんです。なんだか日がたつのが早く感じます」

やがて投稿の件に話が及んだ。「あの文章が気になったんでしょ。大丈夫ですよ。ただ、ふと気持ちを字にしたくって」

そういうときって、あるよなあ。僕も、人助けで出動して、失敗して、落ち込んで帰ってくること多いし。「みんな、感じることは同じなんだと思いました」

よくよく考えれば、あの文章は、僕自身の気持ちを代弁したものだったのかもしれない。生きていて、孤独を感じることは少なくない。悩み、苦しみを、そっくりそのまま理解してくれるなんて人は、そうそういない。家族はいても、心配を掛けさせたくない。悩みを素直に言える相手なんて、人生に何人いるか。決して生きやすいとはいえない人の世の悩みを、あの短い一文が見事に表現していた。

投稿には、世界各地から10以上の「いいね!」マークが押されていた。投稿者と思いを同じくする人たちが、確かに存在することの証だった。

人生で抱く悩みには、答えのないものも多い。もがき、自信を失い、いつしか目線は下を向きがちだ。出口の見えない心の旅路で、こうして憂いを文字として吐き出すことにどれほどの価値があるか、疑念を抱かざるをえなくなるかもしれない。だが、一ついえることがある。それは、こうした投稿が、同じように悩み苦しむ人たちに一種の安らぎを与えるということだ。

悩んでいるのは、私だけじゃなかったんだ。

ざんねんマンはつづった。「僕のほうが、あの投稿に気持ちが救われた気がします」

投稿者から、「なんだか恥ずかしい」と照れ屋さんマークが返ってきた。「心配しないでね、大丈夫だから」とも。ざんねんマンも照れた。元気になってくれたみたいだ。よかった。

そろそろ、お別れのメッセージをーと思っていたところ、追加の一文が届いた。

「それはそうと、あなたはどんなお仕事をされているの?」

また、きたか。だからその、「僕は人助けのヒーローです」

しばしの間があった。「真面目に質問しているのに、どこまでふざけているんですか!」

怒りを買ってしまった。メッセージはその後、途絶えてしまった。最後の最後で、残念な結果に終わってしまった。

とまれ、相手はどうやら元気を取り戻してくれたようだ。これからも「いいね!」ボタンで応援し続けよう。

オンラインで初の出動をしたざんねんマン、淹れたてのコーヒーをすすりながら「今度から仕事は『証券マン』ぐらいにしとくかぁ」と妄想を膨らませるのであった。