~簡単な自己紹介はこちらになります~
日がな一日、歩く。
このスタイルでの旅を続けているうちに、どこかで気づかされることがある。
私は、だだっ広いこの世界を自由気ままに生きているわけではない。
相当な程度に、意味づけられた空間の中で暮らしている。
のんびり歩を進めているようでいて、例えば右隣を真っすぐに走る白線をしっかり意識している。それは、車道と歩道の境界線だ。この境目があるからこそ、歩行者と自動車は接触する危険性を互いに避けることができる。
この白線一本を引くことで、我々は安全に通行し、暮らすことができている。
白線とは、それほどに我々の生活に密着し、欠かせない存在だといえる。
白線を見た瞬間に、我々は特定の意味を見出す。それはあたかも、白線に備わる本来的な機能のように映る。
だが、黙々と歩を進めるうち、そのなくてはならないはずの存在が、実に存在根拠の不確かなものとして迫ってくる。
ただの白い線じゃないか。
よくよく見れば、そうだ。何の意味もない、ただ白色を反射するだけの塗料の連続にすぎない。
日常、暮らしていて目にする信号、道路標識、あらゆるものに、我々は重要性・必然性を見出している。現代社会の礎となる規範や機能を認めている。当然のように考え、無条件に従っている。だが、本来、それら目に映るものたちに、我々が認めるような意義や役割は、ない。
目の前に広がるのは、意義や機能とは関係のない、奔放で茫洋たる世界なのだ。
ひたすら歩くだけの旅を通じて、まぶたに積もった「常識」「ルール」という仮の立てつけが剥がれ落ち、とらえどころなく、少し不気味さも感じさせる空間そのものが立ち現れるように感じる。